漢文が移入されてどのようにしたか。漢文訓読が行われた。仏教の経典はその勢いを加えた。漢文を訓読みをしたのはもっぱら儒教の典籍である。お経はいわゆる呉音読みで棒読みをした。いずれも訓点語をつけて読んでいた。そのとき祖先はどのように漢文を手に入れたか。日本国見在諸目録、げんざいと読むが、そこに収載された書目がその状況を伝える。写経、写本のことはその文化を伝える。訓読は音読とは異なる。訓は日本語読みをすることであるが、訓をつけるということは日本語文にすることでもあった。和訓と言い、それは日本語の意味をつけることである。漢語に漢字を形音義で分解することがあり、その音義は盛んにとらえらえて、音義書からさらに和訓を集めた辞書が作られるようにもなる。漢字の渡来、歴史書の記述、それからわずかな時期に急に訓読があり、300年ほどの間に現われる。漢文訓読がいつごろから始まったか・・・ . . . 本文を読む
日本語誤百科 9ページ 今現在 を、例題にしている。今 と、現在 を同義とすれば、同語反復になる、と解説する。そして、今来た と、今来る が、過去と未来を表していると言う。いま という語に過去時も未来時もあると言うことらしい、それで現在はないわけだから使えないそうだ。現在をどうとらえるかであるが、時間の流れを過去現在未来で区切るのも明確でないところもあるので、その現在時の時間幅に対して、現在の目下の時間を捉えて、いま と言っている。同語反復また重ねことばとしての理解はその通りであろう。いま過去、いま未来、というのは使えそうにないが、今現在は使いそうだ。いま に対する語は、昔だろうから、今昔の語のあることを思えば、いまとさき、いまとさっき、とその使い方に、いまを瞬間時として意識するのかもしれない。
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述語と発想 日本語の文法について その34 述語14 文法の考え方を主語の捉え方にあるとするか、述語にあるとするか、日本語の文法を突き進めると思い合せる。主語述語を文の成分要素としてどちらも必須要素であるとすれば主語述語の考え方は述語動詞に重きが置かれる。主語は絶対として前提にあるのでそれは見方の中心となるからである。どう見るかというのは、主語を見て、主と名付けて言語現象に動詞述語を支配する。第1等格というのもそうだ。
主語をとれば述語をみることになり、主語が必須でなければ述語を中心にして考えるのでこれは必須としてあるはずなのだが、その述語という点では考え方を新たに加える。述語動詞でなくて、日本語でいうところの、動詞述語と形容詞述語であるが、これを述語動詞に準じる捉え方ができるかどうか、ここに日本語の視点がある。それはさらに名詞述語というようなとらえ方があるので、文法論議になる。
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