文法には文を主語と述語でとらえ、文章には主題部と説明部でとらえる、という対比を、日本語文法文章論で考える。文法に文が設定される考え方で、句をとらえていた、章句の区切りにある言語主体が、文の捉え方に現れなくなった、そういう考え方が進められて、文法論が行われてきたのである。辞と詞、そこにあらわれる句は文章を構成する。文の考え方で言語主体は文の中ではモダリティと分析されたが、必ずしも文に現れないので、文とする主語と述語に、主語をかならずしも示さないことから、主語を補語とすることによって、文の考え方を変えてきている。日本語の文は、主題を持つ文章にある、そこに包摂されているので、日本語の文章として、主題を析出することになる。日本語文法文章論は日本語の言葉による論理を分析する。 . . . 本文を読む
禅語としてよく知られているのは、挨拶、玄関、喝など、身近なところに用いる言葉がある。禅宗がどういうものであったか。庶民にとって、日常にはどうかかわりえたか。一挨一拶、いちあいいっさつ、という禅語が、民衆に浸透するのは、どういうきっかけがあるだろうか。碧巌録に、一挨一拶、其の深浅を見んと要す、と見える、解説がある。二十三則、一言一句、一機一境、一出一入、一挨一拶、というのを、田上さんは引用する。講談社学術文庫の1冊、禅語散策、田上太秀さんの本による。師と弟子か、禅僧仲間たちか、心で心を読むと言う。心の深さを知る、考えを忖度する、応答を迫る、考えを披露するときに、言葉を投げかけ、心境を試験するというわけである。それに伴う用語に、棒喝、払拳棒喝 ほっけんぼうかつ 、それにはまた、一頓棒、三頓棒、三十頓棒のような言い方が見るそうであるから、禅宗の修業のさまが想像される。ただ、この挨拶を、一方で、取り入れたのは、俳諧であるから、その用語にあるか。俳句の挨拶となると、そうとらえる山本健吉氏、俳句は挨拶、滑稽、即興であると言う。 . . . 本文を読む