文章があった。文を章としてたてる。その文は、綾であるから、ことばそのものを、いろいろに表現している。それが章をなすと、あやのあやである。字通によって、>また詩文の章節・楽章の意となる。文(文)が文身の意より文雅・文章の意となったように、章も入墨の意から諸義が展開する。その展開の過程は、両者に似たところがある。訓義に、詩文、楽曲の一節とある。章句となると、>【章句】しよう(しやう)く 文章の段落。章と句。〔文心雕竜、章句〕 と見える。章法、しようほう 作文の法、というのがある。わたしにとらえる文章は句を連ねたまとまりをなすものである。 . . . 本文を読む
講談社学術文庫の1冊、禅語散策、田上太秀さんの本による。
一味とは、海水の塩味である、という。
川の水は海に流れ込むとみな同じ塩味になるになる喩えである。喩えというには、そうなってしまっているのだから、この塩味は何を意味するか。その一味である。辞書によって、仏教の言葉の解説を見れば、>仏語。現象は多様であるが、実はすべて同一で、平等無差別であるということ。また、仏の救いは平等であること。デジタル大辞泉の解説 また、>〘仏〙 仏の教えが平等・一様であること。 → 一味の雨 大辞林 第三版の解説 と見える。一味の雨とある。大辞林 第三版の解説 いちみのあめ【一味の雨】〔法華経 薬草喩品〕 雨が一様に草木をうるおすように、仏の教えが広く流布することのたとえ。さて、一味の禅である。たどり着くところは、無差別、平等となるから、それが一味である。一味禅は純粋無垢の禅のことを指す。一味瀉瓶というのは、一滴も余さず、水を瓶にうつすことで、禅を伝えることを言う。行きつくところは、そこはどこなのか。 . . . 本文を読む
ファッション用語である、チョーカー、チョークからその名がついたかと見てみる。蝶ネクタイという連想もあって、ネックレス、ペンダントと、その用品の名前が、とうとう、首輪にたどり着いた。確かにそうだ、それをあれこれとそうぞうすることである。ツイッターに、書き込みがあったり、奴隷が存在していた時代には、自由を奪うために拘束具として首輪が用いられたなどと、解説を読んでいくと、ファッションの起こりはそういうところに、語源ならぬ由来があるものだろう。
>そばがき
@buckwheatpalace
チョーカーはchoke「窒息させる」って英単語から来ていると知ったから、チョーカーを着けている人は誰かと支配・被支配関係にあって、チョーカーはその象徴というような印象を持ってしまい、美しいだけじゃなくて耽美性があるなあと思った というのがあった。 . . . 本文を読む