現代川柳『泥』終刊号
その四
多様化、という言葉が、何の抵抗もなく使われるようになって久しい。
当然のように、川柳の世界においても、この現象は年々歳々進んでいるような気がしている。
その結果、作品はより個人的になり、細分化してきて、全体として川柳を取り上げたり、ひとつの方向へ向けることは難しくなってきている。
近年では、どう作ったか、どう読んだかと、作者にしても、読者にしても個人の内部へと視点が向けられ、個人がひとつの単位になっている。
自由に私川柳を作りたいという欲求と、作品とそれを生んだ人間とは一体でありたいという願望もその表れだと思う。
また最近の大会などにみられるカリスマ選者の存在もそうだろう。こうした選者に共通しているのは、自身が自らに課しているその人のものでしかない姿勢や部分、あるいはその人がその人であるという絶対的な思考(魂)つまり、この魅力を持っているということだ。
作者は個として、選者の個へ問いかけたいのである。
多様化とは、ある意味で量より質への拘りなのかも知れない。
少人数の大会や小単位の同人誌が益々増えてくることが予想される。人と人との、個と個との結びつきがそれだけ強くなっていくだろう。
「泥」という小さな誌が、無事終刊を向かえられたのは、
そうした強い結びつきに支えられていたからである。
その四
多様化、という言葉が、何の抵抗もなく使われるようになって久しい。
当然のように、川柳の世界においても、この現象は年々歳々進んでいるような気がしている。
その結果、作品はより個人的になり、細分化してきて、全体として川柳を取り上げたり、ひとつの方向へ向けることは難しくなってきている。
近年では、どう作ったか、どう読んだかと、作者にしても、読者にしても個人の内部へと視点が向けられ、個人がひとつの単位になっている。
自由に私川柳を作りたいという欲求と、作品とそれを生んだ人間とは一体でありたいという願望もその表れだと思う。
また最近の大会などにみられるカリスマ選者の存在もそうだろう。こうした選者に共通しているのは、自身が自らに課しているその人のものでしかない姿勢や部分、あるいはその人がその人であるという絶対的な思考(魂)つまり、この魅力を持っているということだ。
作者は個として、選者の個へ問いかけたいのである。
多様化とは、ある意味で量より質への拘りなのかも知れない。
少人数の大会や小単位の同人誌が益々増えてくることが予想される。人と人との、個と個との結びつきがそれだけ強くなっていくだろう。
「泥」という小さな誌が、無事終刊を向かえられたのは、
そうした強い結びつきに支えられていたからである。