写真は夕立という和歌の掛軸に書かれた斉昭の署名です。市立博物館にありました。
文化10年(1813)、14歳のときに1日に強弓で2000射をしたそうです。25歳(文政7年(1824))のときには、鉄砲を1日1000発撃ったそうです。横井小楠の遺稿中に、一寸(約30cm)角の的に斉昭が3発中3発をあてたとあるそうです。
藩主に就任して間もなく、家臣は先代と同じ食事を用意したそうですが、内向きのことだから食事などに金をかけることはないと、就任前の部屋住み時代の食事に変えさせたそうです。
小倉百人一首は恋歌が多くて風俗風習によくないということで、それに向いている歌を200首選んで、明倫歌かるたと名づけて、奥向きや一般の人々に広めようとしたそうです。
嘉永2年(1849)9月に、将軍・家慶(いえよし)が小石川の水戸藩邸を訪問したそうです。邸内の池に舟を浮かべて紅葉を楽しんだそうです。この日に斉昭は自分で描いた菊花の屏風を家慶に献じたそうです。家慶はそれを受けとったそうで、斉昭隠居処分後の幕府側の変化を藩士は喜んだそうです。斉昭は絵も上手だったのでしょうか。
攘夷の巨魁と見られていた斉昭ですが、松平春嶽への手紙では、「私抔(など)は老年に相成候間(あいなりそうろうあいだ)、攘夷は私の株故(かぶゆえ)終身相止メ不申(あいやめもうさず)其儘死迄(そのまましぬまで)も攘夷家にて相済候心得(あいすませそうろうとこころえ)。」(私は年もとり(若ければ転向もできるのだが)、攘夷家ということになっているので、死ぬまでそのままで通そうという気持ちといった感じでしょう)という、本心を書き送っているそうです。