徳川光圀像
水戸に君あり、紀伊に臣あり、尾張に大根あり
「水戸に殿あり 紀州に家来あり 尾張に大根あり」ともいうようです。紀州藩には安藤直次という家康の忠臣だった付家老(つけがろう)がいたそうです。尾張は大根とはかわいそうですが、大納言が掛けてあるそうです。水戸は中納言です。ただ、将軍は尾張藩からは出なかったそうです。水戸の「君」は徳川光圀のことのようです。写真は、水戸市史にある、久昌寺所蔵の光圀像だそうです。
何でも通す水戸街道
3代綱條(つなえだ)の時代に起こった多数の農民が江戸に上った直訴行動や、斉昭の謹慎に対する雪冤(せつえん 無実の罪であることを明らかにする)運動で武士、農民などの江戸入りなど、水戸街道は、江戸時代としては珍しく水戸藩民の動きが活発だったようです。関所がなかったということや、水戸藩が御三家の一つだったこともあったようで、それで「何でも通す」と言われたようです。
生きて斉昭、死んで光圀
斉昭は、天保の改革の行き過ぎをとがめられて、幕府により弘化1年(1844)に隠居謹慎させられたそうです。しかしその後、ペリー来航によって、それまでの攘夷活動の先見性や内容などが認められて、嘉永6年(1853)に海防参与となって幕政に参与するようになり、斉昭の名声が高まったようです。その頃に、幕府内でこのようにいわれたそうです。ただ、幕政で斉昭の強硬意見は通らず、また、水戸藩は混迷を極めたりしたため、安政4年(1857)には参与を辞任して幕政から退いたそうです。その後、斉昭の名は世間から消えていったようです。勝海舟は「ちょっと芝居をやったくらいでは、天下に名はあがらないさ」といっているようです。
水戸の議論倒れ
水戸っぽの三ぽいは、「理屈っぽい・怒りっぽい・骨っぽい」だそうですが、そうした傾向が水戸にはあったのでしょうか。大日本史編纂に力点を置いて、詩や文学にはあまり気を回さなかったということも言われるようです。大日本史編纂などは、まさに議論の連続だったことでしょう。ことわざは、議論だけでかんじんな仕事ははかどらないということのようです。
薩摩警部に水戸巡査
幕末に行われた水戸藩内での争乱によって、人物がいなくなってしまったため、このようなことが言われたそうです。ただ、なぜ巡査なのかということがあります。坂本竜馬は自分が「事」を起こすときには野州(栃木のことですが、水戸天狗党などのことを言っているようです)などで戦闘を体験した有志を集めるという意味のことを手紙に書いているそうですが、そうした発想は新政府が警官を採用するときにもあったような気はします。そうしたことが背景にあったことわざなのでしょう。