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水戸の見て歩き

水戸の地蔵(8)

2024-06-11 21:57:59 | 水戸

 1700年代に建てられたように見える地蔵を集めてみました。元禄年間(1688-1704)以前にあたる、1600年代の地蔵は、そうとう少なくなっているようです。

 

天徳寺(河和田町914-1)
 正徳3年(1713)巳(み)と見えました。墓地内にあった地蔵です。2代徳川光圀の跡を継いだ、光圀の兄(高松藩主徳川頼重)の子である綱條(つなえだ)の時代です。正徳五年(1715)に大日本史という名前が決定したそうです。

 

加倉井(36°23'44.1"N 140°23'05.8"Eあたり)
 三つ叉のわかされ部分に建てられた雨除けの堂中で見ました。「享保一四年(1729)酉八月廿四(24)日 原同行中三十五人施主 開眼師 乗(板に書かれた文字は「乗」のように見えましたが「来」かもしれません)迎山之刻作也」と書かれた板がありました。

 

神崎寺(天王町8-17)
 「享保十五年庚戌(1730)七月吉日 奉鋳鎔金銅地蔵尊一躰」とあり、以下、僧や檀家の奉納者名が台座の反り花の表面に彫られていました。金銅製の露地仏ですが、きれいな姿で残っているようです。この年に4代宗堯(むねたか)が26歳で没し、子の宗翰(むねもと)が3歳で跡を継いだそうです。またこの年は、8月に花火の禁止令が出たり、9月には洪水があったりしたそうです(水戸歴世譚)。

 

八坂神社(高田町209-1)
 背中に彫られた文字が、何となく「延享元(1744)」のように見えました。ここは境内の外は茨城町という、行政の境界です。宗翰の時代のようです。

 

米沢町(36°20'27.3"N 140°27'37.3"Eあたり)
 背中に「宝暦六丙子(1756)十月廿四日」とあります。何枚も重ねられた帽子やちゃんちゃんこは、もう少し暑そうです。これも宗翰の時代のようです。この年は、台町清巌寺へ江戸の芝増上寺の僧は来て説法したそうですが、久昌寺の僧と宗論となり騒擾となったそうです。また、酒門に木食観海が、宗翰から134石を与えられて、羅漢寺を開創したそうです(水戸紀年)。

水戸の地蔵(7)

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