こうして見ると、西国三十三ヵ所供養塔の多くは、旧常澄村に集中しているようです。
川又観音(川又町293-1)
西国三十三所供養塔とあり、墓地の入口あたりにあります。明治12年に建てられたようです。台座には「有縁無縁」とあり、「同行十七人」として彫られた大場村、石川村、川又村人たちは、天狗党の関係者だそうです。碑の側面には「為報恩二十三霊」とあり、東茨城郡、鹿嶋郡など人たちの名前も刻まれています。珍しい石碑のようです。天狗党に属して幕末の争乱で死去した23人に人たちを祈るために、地元の17人の人たちが西国を巡礼し、帰郷後建碑の際に、関係した更に広い範囲の人たちもそれに加わったということなのでしょうか。
観音堂(中大野660-1)
ここには3基の西国三十三所供養塔があり、これは文久2年(1862)とあるものです。台座に「同行十六人」とあり、側面に人名が彫られています。
観音堂(中大野660-1)
これもその一つで、明治9年、「同行二十人」とあります。
玉泉寺薬師堂(下大野町2148)
「奉納西国三拾三所供養塔」とある、明治17年の建立の碑のようです。3基並ぶ同様の碑の左側にあります。
玉泉寺薬師堂(下大野町2148)
ここの3つの石碑には、どれも上に「奉納」が刻まれています。この碑は中央にあるもので、(1)にある碑は右にあります。嘉永4年(1851)とあります。
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