開基
寺伝では、大同2年(807)に吉田神社に付属した神宮寺として、桓武天皇の勅願、最澄の開基で建立されたそうです。そうしたことから類推すると、平安初期に桓武天皇の勅願所として創立され、中期には神宮寺としての形が整備されていったということのようです。
鎌倉時代
鎌倉時代になると、幕府に近い関係があったこともあり、次第に吉田神社の勢力下から離れて行ったそうです。
江戸氏時代
江戸氏の時代になり、庇護を受けるとともに、その菩提寺になったそうです。大永7年(1527)の本堂焼失(仁王門、本尊、両脇立、十二神将は残る)のときには、江戸氏の力で復興したそうです。写真は焼け残った十二神将です。
佐竹氏時代
佐竹氏は薬王院を、天台宗から真言宗へと改宗させて、一乗院としたそうですが、徳川家康による佐竹氏の秋田移封に伴って、一乗院も秋田へ移ったそうです。水戸に一部残った一乗院は、その後、光圀によって、今の那珂市に移され、それが法満山一乗院だそうです。写真は5年前の法満山一乗院です。
徳川氏時代
徳川頼房の代の、慶長19年(1614)に宗旨を天台宗に戻したそうです。また、頼房は光圀の兄である早世した亀千代を薬王院に葬ったそうです。
光圀はその墓を今の常陸太田に移したそうで、入口にある巨大な五輪塔はその墓碑だったものだそうです。貞享五年(1688)年に本堂を改修したそうですが、このとき正面を東に向け、床を石畳に変更したりしたそうです。そして、元禄10年(1697)には、薬王院を水戸藩の天台宗檀林所にしたそうです。
斉昭は、天保の改革で、それに抵抗した薬王院に対して、鐘等を没収して、不心得ということで永無住という処分をしたそうです。その後、次の慶篤(よしあつ)の代になって、須弥壇などが藩によって再建されているので、元に戻ったということのようです。
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