泉町(いずみちょう 現・泉町あたり)
新町(あらまち)→荒町→本荒町と名前が変わり、享保元年(1716)に防火の願いを込めて泉町となったそうです。写真は、以下の泉町から向井町までの地図です。水戸コンベンション協会発行の水戸城下町マップ幕末版です。
上金町(かみかねまち 現・金町1・2丁目あたり)
はじめは材木商が多くあって木町といわれ、後に新木町ができたために本木町となったそうですが、元禄9年(1696)に新木町から本木町までが火事で焼けたため、本木町を火に強い上金町と改名したそうです。
下金町(しもかねまち 現在の金町3丁目あたり)
はじめ、新木町といわれ、本木町と同様、下金町と改名したそうです。
向井町(大工町2丁目あたり)
外堀のできた寛永15年(1638)以降に開かれた町で、大工町などの向かい側という意味で、始めは向町と書いたそうですが、火事が多く、元禄3年(1690)に防火の願いを込めて「井」の字を加えたそうです。
清水町(しみずちょう 本町2丁目あたり)
水戸藩初期に開けた、水田に中にあった町で、田中町といわれたそうですが、寛政11年(1799)に清水町と改称されたそうです。備前堀が少し手前の三叉橋(みつまたばし)で二つに分かれ、この地はそれに南北で挟まれているのでつけられた名前のような気がします。写真は水戸コンベンション協会発行の水戸城下町マップ幕末版です。
川崎町(かわさきちょう 城東2丁目あたり)
かつて城東小学校の運動場あたりに蒼龍寺があり、天和9年(1681)に払沢村に移されたそうですが、その縁でこのあたりは元禄3年(1690)には新寺町といわれたそうですが、その後、川崎町と改称されたそうです。川崎という名称は、「川に面した」といった意味だそうですので、ここは那珂川に面しているのでいわれたのでしょう。水戸の旧町名石碑散歩(3)にある上図の⑫です。
蓮池町(はすいけちょう 城東3丁目あたり)
かつて威徳院という寺があり、寛文6年(1666)に破却となったそうですが、この寺のかたわらに蓮池があり、蓮池弁財天が祀られていたそうです。そうしたことからついた名前のようです。上の川崎町にある図の⑱です。
泉沢(いずみざわ 手子后神社(元石川町1728)崖下)
手子后(てごさき)神社に源義家が詣でたとき、兵が弓の先で境内の沢を突いたところ水が湧き出したそうです。今は手水池になっていますが、そのあたりを泉沢と呼んだそうです。近くには義家が兵をとどめて旗を立てたという、御旗(おはた)という地名も残っているそうです。
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