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水戸の庚申塔(9)

2024-08-22 21:38:09 | 水戸

  建立年の分かる庚申塔のいくつかです。

 

庚申供(酒門町36°21'17.1"N 140°29'40.7"Eあたり)
 安永4年(1775)とあります。6代治保(はるもり)の時代です。安永4年には、水戸八幡宮の拝殿が手狭になったために再建されたそうです。ここの石造物群は3基くらいあって庚申塔は左側ですが、それぞれそうとう劣化が進んでしまっているようです。供養塔の「供」までしか見えませんでした。

 

庚申供養塔(下国井町36°25'22.9"N 140°26'03.4"Eあたり)
 天保6年(1835)とあります。9代斉昭の時代です。この年に斉昭は、茶の栽培をすすめるために、宇治から茶師の小川佐助を呼び、御茶園を開いたそうです。県道102号線脇の常磐自動車道トンネル入り口付近にあります。「水戸の石仏」では、左下の文字を「下国井乙」とありますが、「下国井建」のように見えます。

 

庚申供養塔(魂崎(たまさき)稲荷大明神 36°20'46.4"N 140°31'31.0"Eあたり)
 安政7年(1860)とあります。これ以下の3基は、この年が庚申なのでたくさん建てられたのでしょう、同じ1860年の建立です。ただし、3月に万延と元号が改まっていますので、年号は2種類あります。この供養塔の下段には、4つの坪名と、連中という文字が刻まれています。

 

庚申塚(仏性寺 栗崎町1984)
 安政7年(1860)。山門近くにある庚申塚です。この年の3月には桜田門事件が起こったそうですが、この事件は、安政が万延に変わる改元の一因にもなったそうです。幕末動乱が本格的に始まったともいえる年のようで、まさに政治的変革が起きるという庚申の年になったようです。

 

十二所神社(塩崎町2323)
 万延1年(1860)10月とあります。天狗党が筑波山に挙兵し、その後の流れから大発勢があり、それが幕府との衝突をもたらしたということで、水戸藩の名代で大発勢を率いた支藩宍戸藩の藩主・松平頼徳(よりのり)が、幕府側の命で切腹させられたという月であるようです。どんなうわさ話を聞きながら、講中の人たちはこの碑を建てたのでしょう。

水戸の庚申塔(8)


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