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水戸の見て歩き

水戸の廃寺

2024-09-06 22:11:29 | 水戸

 水戸は、徳川光圀と斉昭による宗教改革と、さらに明治初期の神仏分離によって、数多くの寺がなくなったようです。廃寺の多さは、そうした歴史の名残りなのでしょう。そして、さらに現在はそうとう深刻な檀家の寺離れが進んでいるようです。これはどのような姿を寺にもたらしていくのでしょう。

 

仏陀院浄園寺(栗崎町36°20'50.2"N 140°31'04.0"Eあたり)
 六地蔵寺の末寺だったそうです。明応6年(1497)の文書には、恵範が勤修、書写したという記載があるそうです。享和2(1802)の文書には仏陀院の名前があるそうですが、のちに廃寺になったそうです。斉昭による天保の改革で破却されたのかもしれないそうです。写真のように、墓地奥に無住の本堂があります。

 

銀河寺(墓地 米沢町436-8)
 漱石山銀河寺といい、薬王院の末寺だったそうです。漱石山という名は、光圀が建てた漱石所から付けたそうで、それ以前は笠原山といったそうです。銀河寺にあったという不動堂が残ったようですが、斉昭の宗教改革で、廃寺になったそうです。最近までその後再建された建物がありましたが、それも整理され、現在は墓地のみが残っているようです。

 

宝鏡院(城東1-11-19)
 宝鏡院は、佐竹義宣(よしのぶ)が現・常陸太田市から移した大寺だそうですが、光圀は、鬼門に当たるという青柳へ移し、光圀没後、ふたたび旧地の東端へ、規模を小さくして戻ったそうです。その後、斉昭の改革で神崎寺寄寺(よせでら)となったそうです。今は、寺内にあった不動尊を木村傳兵衛などが不動堂をつくってかつてのゆかりとしているそうです。

 

竜光院(大井神社(飯富町3475)北側)
 現・常陸太田市天下野(けがの)にある東清寺の末寺で、真言宗・高水山竜光院法善寺といった寺で、寺中には5つの寺があったそうです。天保の改革で、畳寺(たたみでら)となり、文久2(1862)に落雷で焼失したそうです。遅月が一時住したそうで、遅月が建てた芭蕉句碑が残っているようです。写真は、遅月が建てた芭蕉句碑と、最近建てられた遅月句碑です。写真、このあたりから右奥がかつての竜光院の境内です。

 

江林寺(松本町36°23'31.7"N 140°27'25.3"Eあたり)
 臨済宗で、桜町にあり、その後、今の墓地あたりに移ったようです。頼房の家臣・岡崎綱住が建立した寺といわれ、斉昭の宗教改革で畳寺になったそうです。さらに、安政年間(1854-1860)には火災で焼失したようです。現在墓地は祇園寺が管理し、山村暮鳥の墓があるそうです。

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