鍼灸に対しては奨励していたそうです。中国の鍼灸の書「千金方」を、儒臣・人見卜幽軒(ぼくゆうけん)に和訳させたそうですが、人見が老齢で、進み方がはかばかしくないところを見て、徳川光圀自身も筆をとって手伝ったそうです。写真は、千波湖西岸にある大きな光圀像のもとになったという、水戸市役所にある像です。
神崎(かみさき)に、数寄(すき)を好む老人がいたそうです。光圀が立ちより、茶を一服していったそうです。足が痛くて正座できない老人は、子供のような座り方で茶を点てたそうです。光圀は、茶入れに銘がないということで、横雲と名づけたり、あとから筑前産の茶釜・芦屋釜を贈ったりしたそうです。
隠居後、藩内にある八牟知山にわけいった光圀は、知られていない桜の老樹を2本見つけ、一ト木桜、二タ木桜と名づけたそうです。それを聞き知った人たちは、その花見に出かけるようになったそうです。
世の人は末期に辞世の詩歌などを書くが、場合によってはそれをできないこともあろう、自分は隠居して江戸をたったときに、綱條(つなえだ)に残した詩が辞世である、と常々いっていたそうです。
隠居後のこと、一門の婚礼の席で、小謡をうたいだしたそうです。その謡の最後に、「只松むしの独寝(ひとりね)の」という部分があるので、どうなるかと周囲は思っていたそうです。光圀はそこにいたると、乱酒になっていて聞こえそうにないと思ったらしく、伸び上がって右手の指2本を高くかかげ、声高に、「只松むしのふたりねの」とうたったそうです。