写真は(小宮山楓軒墓)
林十江(1778-1813)
元吉田町3240(清巌寺) 029-247-6070
奔放飄逸で、現代的な感性を持った江戸時代後期の南画家だそうです。江戸へ出て、谷文晁の代筆になったりしましたが、病に倒れ水戸で死去したそうです。
立原翠軒(たちはらすいけん)(1744-1823)
六反田町767 (六地蔵寺) 029-269-2211
江戸の彰考館の総裁になり、大日本史の資料等を整理し、遅滞していた大日本史編纂事業を再び前進させたそうです。しかし、弟子の藤田幽谷等との対立で、彰考館を去ったそうです。
立原杏所(きょうしょ)(1786-1840)
六反田町767 (六地蔵寺) 029-269-2211
立原翠軒の長男で、林十江、谷文晁等に学び、渡辺崋山、椿椿山(ちんざん)等と交流した、水戸を代表する南画家で、書や篆刻にもすぐれたそうです。葡萄図は重要文化財に指定されています。長女・春沙も崋山門下の南画家だそうです。
小宮山楓軒(ふうけん)(1764-1840)
水戸市酒門町330(酒門共有墓地) 029-247-0689
立原翠軒の門人で、彰考館に入り、大日本史編纂に携わり、その後、郡(こおり)奉行となり、困窮していた江戸末期の13カ村の復興に努力し、また、徳川斉昭の側用人にもなったそうです。
栗田寛(1835-1899)
六反田町767 (六地蔵寺) 029-269-2211
本町の油屋に生まれ、彰考館に出仕して大日本史編纂事業に加わったそうですが、幕末の藩内抗争で事業は止まりました。明治になって彰考館が再開され、東京帝国大学教授になったりしましたが、再び大日本史完成に尽力したそうです。完成直前に死去しましたが、実質的な大日本史完成者だそうです。大日本史は徳川光圀時代の支局が発足してから250年くらいたった、明治39年(1906)に完成したそうです。
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