徳川家康の家臣で、頼房のおもり役として配された中山信吉(のぶよし)は、頼房(6歳)が水戸藩主になると、水戸藩筆頭の付家老(つけがろう 御三家などに対して将軍が指名した家老だそうです)として藩政に当たったそうです。元和2年(1616)備前守に叙任されたので、代々中山備前守といわれたそうです。信吉は、わがまま放題だった若き頼房に対して諫言をして直させたとか、水戸を訪れて頼房次男・光圀の性格を見て、頼房の後継として光圀を将軍家光に推挙したといった話があるそうです。
他の御三家の付家老家でもあったそうですが、中山家は独立を志向していたそうです。斉昭のときには、その対立から、中山家の幕府との連絡網が機能しなかったため、それが斉昭の失脚につながったという説もあるそうです。結局、明治維新後に松岡藩(現・高萩市)として廃藩置県まで独立したそうです。
備前守屋敷跡(北見町1-9)
このあたりは以前、和光院のあった地だそうです。中山家は、15,000石から25,000石の禄高で、水戸藩家臣の中では一番の禄高だったそうです。現・高萩市松岡に領地があり、太田にも陣屋があったそうです。写真の歩行者信号下に解説板があります。
備前町
中山備前守が頼房のおもり役になったとき、武功の高い17人の武士がついたそうで、これを世間では八王子十七騎といったそうです。この武士が住んだのが備前町だそうで、元禄3年に天王町と改められたそうですが、いつしかもとに戻ってしまったそうです。写真は網代茂著・水府綺談の付録地図です。
お墓(桂岸寺 松本町13-19)
桂岸寺は3代中山信治(のぶはる)が、2代信正(楓軒)供養のため為に建立した寺で、信正と4代信行(戒名は中山院殿市令信行大居士 信治の子で父より早く35歳で没したそうです)等の墓があります。歴代の墓は、発祥の地である埼玉県飯能市の智観寺にあるそうです。
新屋敷(新荘3)
寛文6年(1666)3代信治のとき河和田、見和にもっていた地を藩に納めて代替地として、新荘の地を開拓して家士を移したそうで、新屋敷(しんやしき)と称したそうです。その後中山備前守は現・高萩市(中手綱)に移り、跡地は、天保7年に斉昭の藩政改革で、小石川藩邸の武士が移り住んで、多くの町ができたそうです。写真は網代茂著・水府綺談の付録地図です。
明星池(城東1)
三軒町の明星池(めいせいいけ 堀の一部)に魚がたくさんいることを知った光圀が、池の水を抜いて魚をとろうとしたそうです。それを聞いた、2代信正は、光圀にご機嫌伺いに行き、直ぐに帰ろうとしたそうです。いつもなら昔話などをするのにと不思議に思った光圀がそれをたずねると、大事な堀の水を抜くようなことを諫めなかった家老である息子(信治)を手討ちに行くと答えたので、光圀は反省したということです。明星池は亀ケ洞ともいったそうです。光圀が久滋浜で小舟に乗って沖に出たことを知った信正は、沖に向けて鉄砲を打ち、その音を聞いた光圀が、自分に鉄砲を打つのは信正しかいないとその非を悟って戻ったといった話もあるそうです。写真は旧町名碑で、背後は県営明星アパートです。
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