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水戸藩初代・徳川頼房の話あれこれ(2)

2019-06-28 19:00:03 | 水戸

 

  写真は東照宮にある頼房奉納の灯籠に刻まれた名前です。

 

 慶長19年(1614)、大坂冬の陣の際、尾張・駿河・水戸の当主が対面し、頼房が「今日の戦いで先手をいいつけられず、戦うことができなかったことが残念だった」と涙を流したのを、徳川家康の家臣が「頼房はまだ若いのでこれからも機会はあるだろう」となぐさめたところ、その家臣をにらみつけて、「自分の12歳という年がまだあるというのか」と一喝したそうで、家康はうれしく思ったそうです。

 

 頼房は、正妻を迎えることはなかったそうです。頼房が幼少の頃、将軍・徳川秀忠の正妻が、あのようないたずら者をだれが聟にするのか」と目の前で言われたことによるという説があるそうです。ただし、11男、15女の父にはなったそうで、光圀はその3男だそうです。

 

 将軍・徳川家光とともに江戸・板橋で狩りをしたとき、猪3頭を射止め、家光に「水戸殿は今能州(いまのうしゅう)だ」といわせたそうです。能州は平清盛の甥の教経(のりつね)という弓に秀でた武者のことで、屋島や壇之浦では源氏を相手に大暴れしたそうです。また、尾張藩主の倒しきれなかった猪を鉄砲の柄で打ち倒したこともあったそうで、その鉄砲は弓のように曲がってしまっていたそうです。

 

 明暦3年(1657)におこった江戸・振り袖火事のとき、火中の水戸藩邸に飛び込んで書物を取り出して火から守った臣下を、家老達が賞しようとしたそうです。頼房は、そういうことをすると今後また火事があると家財のために命を損ずる者が出てくかもしれないからと、適当に家老がほめる程度にしておくようにといって、恩賞は下さなかったそうです。

 

 寛文元年(1661)に頼房が死去するとき、枕もとにあととりの光圀を呼んで、殉死の風習を固く禁じて、それに背く者は君臣の義と断つと遺言したそうです。まだ戦国時代から遠くなかったこの頃は、主人の死に臣下などがそれに殉じて死ぬことがよくあったそうです。光圀は遺言をまもり、それは、幕府による武家諸法度の殉死禁止令(寛文令(寛文3年(1663))では口頭伝達され、天和令(天和3年(1683))で文章化されることにつながったそうです。

水戸藩初代・徳川頼房の話あれこれ(1)


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