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水戸の見て歩き

水戸藩主・徳川斉昭の遺跡(2)

2016-06-25 22:36:02 | 水戸

                          (写真は農人形)

桜野牧
 水戸市見川町2131-165(丹下田園都市センター) 名残の山桜があります。
 馬が領内で産出されないことを憂いた徳川斉昭は、手許金で一~三の牧を作り、総称して桜野牧と呼んだそうです。馬には桜型の焼き印を押したそうで、これは県立桜ノ牧高校の校章の原型だそうです。

水府流水術
 那珂川水府橋少し下流の右岸(水府流水泳道場跡碑)
 水府流水術の名称は斉昭によるもので、弘道館教育の一つになっていたそうです。那珂川がその舞台になっていたようで、この水術は今に続いているそうです。

農人形
 弘道館内や、常磐神社神田にあります。
 稲作農業を重視した斉昭は、農人形を作り、食事ごとに人形に一口の飯を供えたそうです。 朝な夕な いひ(飯) 食ふごとに 忘れじな 恵まぬ民に 恵まるる身は とうたったそうです。今も人形は作られているそうです。徳川慶喜もその思い出を語っています。

妙雲寺無縁供養塔
 見川2-103(妙雲寺) 029-241-2654
 斉昭による梵鐘等の供出を拒否したために廃寺にされ、さらに幕末の騒乱で焼き討ちにあった寺だそうです。さらに明治になり廃藩置県で藩士はちりぢりになっため、無縁の墓が650基余りできて、それらが集められて供養塔になったそうです。

立原杏所
 柳町2-4(此君堂跡) 父翠軒(彰考館総裁)の居宅で、杏所(斉昭らに仕えた武士で画家)はここで育ちました。
 江戸小石川邸での行事で、杏所が香の物を落としてしまい、斉昭は この春の 具足びらきぞ いさましき 先づ打落とす 大剛のもの(香の物) 外の狂歌をよんで杏所に与えたため、杏所は面目を保ったそうです。

水戸藩主・徳川斉昭の遺跡(1)


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