ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の酒の話(7)

2018-07-25 20:18:26 | 水戸

 

中山信名(のぶな)
 水戸では大日本史編集に、江戸へ出て群書類従の校訂に携わり、幕府御家人・中山有村の養子となり、幕府の書物御用出役に出仕した中山信名は酒が好きだったようです。その辞世は「酒もの(飲)み 浮れ女(め)もみつ 文もみつ 家も興しつ 世に恨(うらみ)なし」だったそうです。未完だったそうですが「新編常陸国誌」が代表著作だそうです。

 

徳川光圀
 徳川光圀は牛乳でつくった酒を飲んだそうです。それは牛乳と砂糖を焼酎に入れた食前酒だったようです。今でも牛乳の焼酎割りがありますから、300年前から飲まれていたということのようです。

 

サバデシュ
 一品の吉久保酒造㈱では、サバ専用日本酒の「サバデシュ」を販売しているそうです。飲んでみましたが、確かに、サバと一緒に飲むと相性が合うようで、相乗効果があるようでした。「サバの旨味をより感じるように旨味のある辛口の酒に仕上げました。サバの脂っぽさを洗い流し、脂の甘味をより感じていただけます。」とのことです。

 

食菜録
 徳川斉昭著とある「食菜録」という書に、「酒造る法」という項目があります。それによると、酒造りで水は第二で、米の吟味が第一である、良い米を念を入れて精米して、上方と同じ水の割合で酒をつくれば、上方と同じ酒ができるだろう、といったことが書かれています。

 

立原杏所
 立原杏所(たちはらきょうしょ)は酒好きだったそうで、多くの逸話が残っているようですが、飲み過ぎたようで、天保の中頃に中風になったそうです。しかしそれでも酒が止められず天保11年に歩くのも大変になり、この年に亡くなったそうです。 水戸の酒の話(2)(5)

水戸の酒の話(6)

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水戸の伝説(5)

2018-07-24 21:11:05 | 水戸

驚き半兵衛
 水戸の町はずれに半兵衛というあわて者がいて、あるあまりに暑い夏の暗い夜に丸裸で外に出たところ、夜警の同心に気づかれて追いかけられ、酒門村の知人の家に逃げ込んで、小さな女の子の白い着物を着て再び逃げて、清巌寺に至ったそうです。坊さんが戸を開けると、暗い中、半兵衛が足のない白い幽霊に見えて、坊さんは本堂に逃げて念仏を唱えたそうですが、その幽霊が追いかけて来るので、鐘楼の鐘をならしたそうです。村の人々が集まってきたそうですが、幽霊は半兵衛とわかり大笑いになったそうです。それであわて者のことを、「驚き半兵衛、夜半の念仏」というようになったそうです。写真は清巌寺山門です。

 

熊の恩返し
 むかし宿屋の主人と、おかみさん、きみ子という娘がいたそうです。主人が山で熊を撃ったそうですが、子熊がいたため家に連れ帰って育てて山に返したそうです。きみ子が病気になり、薬に熊の生き肝を食べればと主人が山に入ったそうですが、心配して後から行ったおかみさんを撃ってしまったそうです。後妻を迎えたそうですが、後妻はきみ子の両手の指を切り落として家を追い出したそうです。行くところがなく、山に入ったきみ子のもとに、毎日食べ物が置かれ、それは助けた熊が運んでくれたものだったそうです。その後、里へ戻ったきみ子は親切な人びとに囲まれて、結婚をして子供も持ったそうです。井戸で水を汲んでいて、指がないので井戸に子供を落としてしまったそうです。きみ子が井戸のつるべにぶら下がって子供を助け出そうとすると、指が生えて、子供を助けることができたそうです。

 

下馬橋
 旧湊街道の東大野と圷大野との境にある用水路にかけられた橋だそうです。香取稲荷神社の神前にあり、この神社の神力によって、殿様はこの橋から極楽橋の間は駕籠を降りて歩かなければならなかったので、下馬橋という名前がついたそうです。

 

晡時臥山の蛇
 晡時臥山(くれふしやま)に兄(努賀毗古(ぬかびこ))と妹(努賀毗咩(ぬかびめ))の二人が住んでいたそうです。ある時、妹の寝室に男が通ってきて、妹は身ごもり、小さな蛇を産んだそうです。妹と兄はは蛇は神の子であろうと考えて、さかずきにいれて祭壇に安置したそうですが、一晩でさかずき一杯になり、次に瓮(ひらか)にとりかえましたが、これもすぐにいっぱいに成長して、これを繰り返したそうですが、器が間に合わなくなり、これ以上は養えないので父のもとへ行くようにいったそうです。子は泣き悲しみ、それなら童(わらわ)を付けてくれといったそうですが、いないからと断ると、兄を殺して天に昇ろうとしたそうです。妹はびっくりして瓮を投げつけると昇天できなくなって晡時臥の峰にとどまったそうです。その子孫はやしろを建てて、今も祭礼を行っているそうです。晡時臥山は、朝房山のことだそうです。

 

 

かじや窪の恋
 昔、字(あざ)鍛冶屋に美しい娘がいたそうです。娘が毎晩家を出るので、母が、娘の懐に糸をつけたところ、行く先は鏡智院とわかったそうです。娘は鏡智院の坊さんと恋仲だったのだそうですが、そのことが知れてしまったので、二人は斧沼(よきぬま)への身投げをよそおって京都へゆき、織物の修行に励んだそうです。叔父が二人を探して京へゆき、帰るように説得したそうですが、二人は帰ることをこばんで、十三仏を織り込んだ西陣織を土産にくれたそうで、それが今でも宝憧院に保存されているそうです。

 

 水戸の伝説(4)

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水戸の古木(9)

2018-07-23 20:37:18 | 水戸

 樹齢は市の建てた保存樹表示に記された数字です。

 

モチノキ(入野町 アリスの杜近く) 300年
 根元に大きなウロがありました。民家の庭の古木で、道路からはよく見えません。

 

ケヤキ(河和田 鹿島神社近く) 400年
 これも民家の古木で、隣の駐車場から見ることができます。

 

イチョウ(常照寺 元吉田町2723) 200年
 常照寺は、水戸の散策にはぜひ入れたい場所の一つです。イチョウの古木は、そのよさを形づくっているものの一つです。

 

カエデ(水戸八幡の烈公御涼所 八幡町8-54) 300年
 両側をケヤキの古木にはさまれたカエデです。ここなら、このところの暑さもしのげそうです。紅葉もこころなしか、町内より遅いように感じました。写真左下に少し見えるのは烈公御涼所の碑です。

 

エノキ(香積寺 渡里町111) 250年
 山門前にありました。上が枯れたようで切られてしまっていますが、まだ元気なようで、下枝には葉が茂っていました。

水戸の古木(8)

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水戸のおばけ系(1)

2018-07-22 20:31:14 | 水戸

妖怪さまのお通りだい!(水戸市立博物館 大町3-3-20)
 夏休み子どもミュージアム「妖怪様のお通りだい!」が、水戸市立博物館で、7月21日から8月26日まで開催されています。つくもがみや、妖怪がたくさん並んでいました。妖怪駄菓子のつくも屋や、妖怪の工作教室など色々な企画があるようです。

 

赤小豆洗いぎつね
 むかし、細谷通り町(現・城東5)の新舟渡と御蔵との間の川端に赤小豆洗いというところがあったそうです。そのあたりに狐が住んでいて雨の夜などに赤小豆(あかあずき)を洗う音をたてながら「赤小豆みがきましょうか、人取って食いましょうか」と人をたぶらかしていたそうです。あるとき塩谷五郎次という武士がそれにであい、狐のはねながらおどるのにあわせて自分もおどりながら、狐が近付いてきたところを斬りつけたそうです。翌日探したところ、頭の禿げた老狐が切られて死んでいたそうです。写真の㉓から㉗あたりです。

 

lollipop cowboy(泉町2-3-41)
 オリジナル雑貨の店のようですが、店主が好きなのでしょう、妖怪雑貨が並んでいました。もっとふやしてもよいのでは…。

 

林十江
 下町の商家に生まれて、短い不遇な生涯を送った十江は、その個性的な画風が、今の時代の波長にあったのでしょうか、最近海外でも高い評価を得てきているそうです。木の葉天狗(写真)、雷公などのお化け系や、トンボ、トラ、ヘビなどを題材にした作品もあるそうです。

 

水戸黄門の講談
 あるところに幽霊が出て、「今宵の月は中天にあり ハテナハテナ」といい、納得のできない説明をする人は死んでしまったそうです。ところが水戸黄門はその質問に対して少しもあわてず、「宿るべき水も氷に閉ざされて」と答えたところ、幽霊はたいへん喜んでで消えていったそうです。

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水戸の始まり(3)

2018-07-21 20:36:57 | 水戸

写真は、望月安雄著の「泉町物語」にある活動写真館・泉館の場所を示す図です。

 

営業写真家
 明治5年に宇佐美竹城が、神応寺道向かいあたりに写真館を開業したそうです。当時300円もした英国製レンズを買うために、常陸太田の実家や土地を売ったそうです。その後何人も館主はかわったそうですが、戦災まで写真館の営業は続いたそうです。

 

西洋料理
  明治20年に水戸中学校の校長として水戸に来た渡瀬寅次郎が、欧米文化を知るには料理がよいと、コックを東京から呼んで西洋料理店を開かせ、調理法の普及をはかったそうです。渡瀬は札幌農学校の1期生で、クラーク博士の薫陶を受けてクリスチャンとなり、明治18年にはロンドン万博事務官としてイギリスへ行ったそうです。二十世紀梨の命名者でもあるそうです。

 

活動写真の常設館(映画館)
 それまであった、勧工場(かんこうば 今のデパートのようなもの)・水戸館のあとに活動写真常設館の「泉館」が建てられたそうです。場所は水戸京成百貨店の道向かいで、大正3年か4年だったようです(上の写真では大正5年になっています)。大正5年の三の丸小学校の日誌に「教育活動写真を希望者に観覧させる。サンフランシスコの夜景、インド象の材木運搬、ジャンヌダークなどが上映」とあるそうです。その後その地は、水戸庶民金庫、水戸京成百貨店になり、百貨店は道向かいに移ったそうです。

 

自動車学校
 陸軍自動車隊陸軍自動車学校の教官をしていた河原田巌が、昭和3年に堀原練兵場(今の堀原運動公園)の南側に開校したそうです。茨城県内の第1号だそうです。昭和2年の水戸市内では、乗合業8名、貸切業42名、貨物業45名だったそうです。昭和14年、吉沢町に茨城県自動車学校ができたために廃業したそうですが、河原田巌は昭和21年には衆議院議員になっているそうです。

 

女優
 泉町2にあった耳鼻科の山県医院の娘、山県直代は水戸で初めての女優になったそうです。脇役としての番付上位にランクされていたそうで、昭和13年、山本嘉次郎演出の「藤十郎の恋」では主演女優入江たか子の次にランクされていたそうです。

水戸の始まり(2)

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