Sydney Yajima


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無反応になった市場

2009-04-04 22:55:31 | 世界情勢
無反応になった市場

昨日のニューヨーク時間のランチタイムに、発表になったかなり悪い雇用状況にも、市場が反応することはなかった。ひとつには、これはすでに織り込み済みで、驚くに値しないというものが多くのトレーダーの見方だが、しかし、戦後最悪の事態なのである。参照 http://www.guardian.co.uk/business/2009/mar/06/us-unemployment-rate-jobs


このまま事態が進むと、1928年に始まった恐慌に近い形になっていくだろう。

恐慌がどんなものなのか、理解できない人が多い現在、年寄りに聞く話はとても面白い。

パンを求めて行列する人々
列車のただ乗り
大学を卒業してもガソリンスタンドでアルバイトをしている人
自殺者の急増
ビジネスマンが露天を営んで鉛筆やりんごを売っている
オクラホマの農家では逃げ出そうとする農民が続出・・・(スタインベックの“怒りの葡萄”を読むと、ビビッドによく分かるだろう。)

参照http://us.history.wisc.edu/hist102/lectures/lecture18.html

今後、さらに拡大することが予想されている。すでにGM モーターズをはじめ、クライスラー フォードに至るまでリストラ、もしくは会社破産法
 11条の適用などを含めて、大幅な人員削減にともない、非雇用を押し上げることは確実になっている。さらには、その関係企業、テイクアウトを売っていた店や、レストラン、ガソリンスタンドにいたるまで、影響は出てくる。

これから、もっと、抵当物件が増え、個人のクレジットカードの破産、低い消費と自信をなくしたアメリカという悲惨な状況がみえてくるだろう。
さらに深くなる社会不安は、犯罪を誘発し、家庭を崩壊させ、会社の倒産にともない、多くの地場産業が消えて、インフラの整備にまわるべき税収が減り、そのかわりにフードスタンプを握りしめて行列する人が増えていく。

そして・・・
日本もそう遠くない未来に、同じことが起きる。

今の市場が無反応になっている理由は、もうすでに、爆発した破片を見ながら無気力と脱力感で満ち溢れた状態で、ずるずると下がり落ちていく状況を見守っているからではないだろうか?

参照参照

スピリチュアルな経済理論・・今年も Summer time が終わる

2009-04-04 01:41:21 | 世界情勢
今年も Summer time が終わる

何度目のサマータイムだったのかな・・・と過去を振り返る。
毎年やってくる、サマータイムとその終わり。時間は過ぎて、私は年を取り、子供たちは成長し、気がつけば、何も為さないまま、また次のサマータイムがやってくる。照準を合わせて走り抜けることが、できたなら、もっと短くてもいい人生なのかもしれないが、残念ながら 遠回りばかりしている。
だから、何度もサマータイムを迎え、過ぎ去る季節の移ろいを、また恨めしげな気持ちで見送ることを 繰り返しているのかもしれない。あとは、遠方にいる友人や家族に、自分の切れ端をこうして見せているのが、せめてもの証か・・・

などと、この時期になると柄にもなく、センチメンタルな気持ちになる。
アメリカは、迷走をすべてG20という枠組みに 投げて自分たちはまるで被害者で傍聴席にいる遺族かなにかのような態度に終始している印象をうけているのは、私だけだろうか?
そのぶん、中国が、なぜか?自己主張を強めて、いまや、世界に冠たる大国として、名実ともに、紳士として君臨している様相をみせた。ほんの十数年前に、天安門事件があった国だとは思えない。アメリカは、何かを大きく間違えたのだと思う。それが、何だったのか?は、未来の歴史家が様々に語るであろうが、ひとついえることは、多くの天災が同時に起こるような国になったあと、それが人災に広がるほど、心が荒廃していたからなのではないかと思う。人が天災にあったとき、その人と、人が助け合うか、奪い合うのかが、その後の進展につながるのか、それとも、荒廃になるのかの分かれ目になることを、もっと、みんな言うべきではないのかな?

今の経済危機で、引退していくCEOが、何億円も受け取ることは、その奪い合いの精神そのもののように思える。困っているとき、従業員のパートのひとりひとりにいたるまで、気を配るような経営者がもっといたなら、今の経済危機も、もう少しラクに乗り越えることができるという、簡単なことを、誰も言おうとしない。

経済は、人が動かすもので、人は、ほしいものを手に入れるために働いたり、あるいは、知恵を使って創造したり、力を合わせて組み立てたりする過程で潤滑油としてのお金が間に介在して、そのお金が経済の成り立ちへと形を作っていくものである。

その基本が人である以上、その人と人が、もう少しリラックスした優しい関係でなければ、いけないのではないだろうか?という、ソフトの面からみた経済理論に、今まで私はお目にかかったことがない。たいてい、数字であるとか、グラフで書けるもので、その関数や証拠を並べ立てるどちらかというと、やかましい経済理論にはうんざりするほど付き合わされたが、もっと、心や、精神、高い理想や、高い次元の魂の交換などによる、経済理論などを唱えると、それこそ、笑われてしまうからかもしれない。
けれど、もっとも基本である、経済は人が作るものなのだということは、間違いではないはずだ。お寺や神社や教会やモスク、それに、シナゴーグに行って、神の声を聞こうとすることは、人が迷うときや困ったとき、人生の折り返し地点に立ったときには、いつも登場する場面かもしれないが、もし、経済政策や、ごり押しの理論と、それに信奉してきた人たちがたくさんいて、そのたくさんの人たちが、どうしようか迷っているのが今の場面なのだとしたら、私の書いていることの意味が分かるのではないだろうか?

今は、崩壊を待つばかりで、新しい理論や技術を求めるときにはまだ至っていない。なぜなら、その新しい理論や技術は、必ず崩壊後にやってくるものだからだ。

私は、理論や数値を使った技術は、すでに出尽くしたと思う。その進歩とは違う進歩をアメリカもEUも日本も、求めているのが、本当の今の人間というわがままで自己中心的で、しかも、排他的な生物の最後の目標なのかもしれない。

分かりやすく言えば、こうである。

「あなたは、あなたで、わたしは、わたし。だけれども、あなたがいなければ わたしは いないし、わたしがいなければ、あなたもいなくなってしまうんだよ」