日本の大学でも同じだと思うが、(不幸にしてか、幸いにしてか 私の大学生活はオーストラリアであったため、日本の大学の勉強は知らない)大学は、大抵、将来企業に入るとき、役に立つことを教えてくれるところだ。
役に立つこと というのは、企業にとって役に立つということである。
それらは、効率であったり、効果であったり、業績評価であったり会計評価であったり、あるいは、改善システムであったりする。
ここには、一切 人間の情 というものがなく、したがって、いわゆる油っ気のまったくない、ドライな数字の世界である。
企業は、そういう人が入ってきてくれて、実績を上げてくれることを望む。
間違ってはいない。どんな 企業であっても、常に投資に見合ったリターンを望む。
入社した社員は、自分の手柄をたてようと、様々なアピールをする。
それが、資格を取ることである場合もあるだろうし、実績評価までに数字を上げておくということかもしれない。
ともかく、そこでようやく その人本来の欲が、良い意味でも悪い意味でも発揮されることになり、その人は、会社の中で何人かの部下を得るようになる。そうなると、「おい」と部下にいえるようになり、日本の悪い風習であるセンパイとコウハイ という私の大嫌いなシステムが活用される。
私はこういうものが好きではない。もちろん、年長の者を敬うことは、大事だと思うが、一年年上で、威張っている運動部のセンパイというものを、散々見てきた(今でもそうなのかどうかは、知らない)時代の人間としては、うんざりさせられるのである。
ともかく、大学閥ができたり、先輩 後輩のシステムがあったり、と初めてこの辺から 油臭さが出てくるが、これも、人間らしさとはちょっと違う。
人間らしさとは、もっと、人に優しくあるべきで、差別化をすることとは、違うはずだ。
日本は、人に優しい風土があるはずだが、しかし、高度成長期にそれらをどこかに置いてこなければならなかった。
置いてきて、それで何をしたのかというと、批判である。それも日本的にかなりじめじめと陰湿で粘着力のある批判を、常にしてきた。
相手は、薬剤会社であるときもあるし、レストラン、特定の政治家、あるいは企業、芸能人 誰でもいい。ともかく、目に付く人間を、マスコミが書きたて、わざと目つきの悪い写真を載せて、批判してきた。
それも、必要ではなかったとは言わない。だが、批判しているとき、肝心なことをうっかりしていることがあるのではないだろうか。
例えば、今の場合、東電を批判し、あるいは、菅内閣を批判する。
しかし、肝心なこと。
おそらく、龍馬が生きていれば、「ここが、肝じゃ」と言うであろう事。を忘れている。
この国を どうしたいのか。
それを、しっかりと考えないまま、ただ効率とものづくりだけに走ると 同じ間違いをしてしまう。
ものづくり が悪いとは言わない。しかし、同時に ひとづくり もしなければ、片手落ちになってしまう。
日本が、ただの ものづくりの工場か、職人町になるだけで、いいのだろうか。
そのために、「効率の良い」と言われる原子力発電所を 54基も作って、来たのである。
それで、良かったのだろうか。
フクシマという多大な犠牲を、私たちは目の当たりにしている。
これを、ただ、うやむやにしてしまってはいけない。
一番大切なことは、私たち自身がきちんと 答えを出すことだ。
この国を どうしたいのか。
役に立つこと というのは、企業にとって役に立つということである。
それらは、効率であったり、効果であったり、業績評価であったり会計評価であったり、あるいは、改善システムであったりする。
ここには、一切 人間の情 というものがなく、したがって、いわゆる油っ気のまったくない、ドライな数字の世界である。
企業は、そういう人が入ってきてくれて、実績を上げてくれることを望む。
間違ってはいない。どんな 企業であっても、常に投資に見合ったリターンを望む。
入社した社員は、自分の手柄をたてようと、様々なアピールをする。
それが、資格を取ることである場合もあるだろうし、実績評価までに数字を上げておくということかもしれない。
ともかく、そこでようやく その人本来の欲が、良い意味でも悪い意味でも発揮されることになり、その人は、会社の中で何人かの部下を得るようになる。そうなると、「おい」と部下にいえるようになり、日本の悪い風習であるセンパイとコウハイ という私の大嫌いなシステムが活用される。
私はこういうものが好きではない。もちろん、年長の者を敬うことは、大事だと思うが、一年年上で、威張っている運動部のセンパイというものを、散々見てきた(今でもそうなのかどうかは、知らない)時代の人間としては、うんざりさせられるのである。
ともかく、大学閥ができたり、先輩 後輩のシステムがあったり、と初めてこの辺から 油臭さが出てくるが、これも、人間らしさとはちょっと違う。
人間らしさとは、もっと、人に優しくあるべきで、差別化をすることとは、違うはずだ。
日本は、人に優しい風土があるはずだが、しかし、高度成長期にそれらをどこかに置いてこなければならなかった。
置いてきて、それで何をしたのかというと、批判である。それも日本的にかなりじめじめと陰湿で粘着力のある批判を、常にしてきた。
相手は、薬剤会社であるときもあるし、レストラン、特定の政治家、あるいは企業、芸能人 誰でもいい。ともかく、目に付く人間を、マスコミが書きたて、わざと目つきの悪い写真を載せて、批判してきた。
それも、必要ではなかったとは言わない。だが、批判しているとき、肝心なことをうっかりしていることがあるのではないだろうか。
例えば、今の場合、東電を批判し、あるいは、菅内閣を批判する。
しかし、肝心なこと。
おそらく、龍馬が生きていれば、「ここが、肝じゃ」と言うであろう事。を忘れている。
この国を どうしたいのか。
それを、しっかりと考えないまま、ただ効率とものづくりだけに走ると 同じ間違いをしてしまう。
ものづくり が悪いとは言わない。しかし、同時に ひとづくり もしなければ、片手落ちになってしまう。
日本が、ただの ものづくりの工場か、職人町になるだけで、いいのだろうか。
そのために、「効率の良い」と言われる原子力発電所を 54基も作って、来たのである。
それで、良かったのだろうか。
フクシマという多大な犠牲を、私たちは目の当たりにしている。
これを、ただ、うやむやにしてしまってはいけない。
一番大切なことは、私たち自身がきちんと 答えを出すことだ。
この国を どうしたいのか。