外へ出ると、今は様々な花が次々と目を楽しませてくれますね。
暇を見つけると、最近は片づけ物に精を出している私ですが、
買い物ついでですが、清々しい空気を吸って、
きれいに咲き誇る花を眺めるのもいいですね。
片づけ物といえば、
私には、「掃除は悟りに通じる」と思えます。
そうでなければ、修行の場で、
あんなにも一心に掃除をさせるはずがないではないですか。
事実、何事か心みだされることにかにぶつかったら、
体を動かして掃除をする。
するといつの間にか心の持ちようが変わってしまうことも。
そのうちに、何故か悟りにも似た境地に浸れるのです。
別に一心にやれば、掃除でなくともよいのでしょうが、、
掃除だときれいになってさっぱりするという副産物がありますから、
一石二鳥ですよね。
そこで最近また思い出した釈迦の弟子の話を。
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仏陀の弟子のなかで、一番愚かだといわれていた周利槃特(しゅりはんどく)は、
ときどき自分の名前すら忘れてしまうほど頭が悪かったそうです。
周利槃特は、あまりの自分の愚かさに、仏陀のもとを訪て、
「私はあまりに愚かなので、もうここにはいられません」といいます。
その時、仏陀が彼に言いうには、
「自分を愚かだと知っている者は愚かではない、
自分を賢いと思い上がっている者が、本当の愚か者である」
「おまえの一番大好きなことはなんだね」
そういわれて槃特は、「そうじが好きです」とこたえます。
そこで仏陀は頭の悪くてもこの位は覚えられれるだろうと、
「塵を払い、垢を除かん」(ちりをはらい、あかをのぞかん)
という言葉を唱えながら掃除をするように言います。
仏陀にそういわれて、嬉しくなった槃特は、
「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら、
五年、十年、二十年と、ひたすらに掃除をします。
あまりの熱心さに。
彼をバカにしていた周りの弟子にも尊敬されるようにもなります
そしてついに槃特は、仏教でいうところの「阿羅漢」の境地に達します。
( 私はとっくにアラカンをすぎていますが・・・)
ある日、釈尊は、大衆を前にしてこう言いました。
「悟りを開くということは、なにもたくさん覚えることでは決してない。
たとえわずかなことでも、徹底して行うことが大切なのだ。
見よ。周利槃特は箒で掃除することに徹底して、
ついに悟りを開いたではないか」と。
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この話、忘れたころに思い出しては、
私のごちゃごちゃした頭を単純にもどしてくれます。
今日は、癌の疑いでで検査に行った方から、
「なんでもありませんでした。」というメールがありました。
心配していたので本当によかったなと、ほっとしています。
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