ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

ミス・サイゴンのエレン

2004年11月26日 | ミュージカル・演劇
この間「鈴木ほのかさんのエレンがどんな解釈でやっていたか見たかった」と呟いたら、見たことがある方が早速教えてくださいました。Kさんありがとうございました!
CDを聞いてなんとなく予想はしていましたが、やはりキムに対してかなり冷たいエレンだったようです。ラストでもタムを見つめるだけで、最後まで手を取ることはしなかったそうで。
今回の公演で私はお二人のエレンを見ましたが、そのうちの高橋由美子さんの解釈と比較的近いエレンだったかなあと思いました。高橋由美子さんのエレンを見た時になんとなくそう思ったのですが。
高橋由美子さんのエレンは、ラストシーンではずっとタムを見つめていて、最後にようやくタムの手を取りました。ほのかさんはそこで取るところまで行かなかったんだなあ、きっと・・・
もうお一方のエレンは、キムに対しても優しくあろうとしていて、最後にはタムを抱きしめていました。優しいエレンにはホッとする面もありますが、前にも書きましたが、私にはかえって印象の薄いエレンになってました(汗)キムの引き立て役になってしまっていたような。演技の力量の差とかもあるかもしれないんですが・・・(汗)
この作品の良いところは、単にキムとクリスの純愛物語ではないし、悲劇のヒロインとしてのキムの物語、でもないところだと私は思いました。もちろんキムは悲劇のヒロインですが、本当に描きたかったのはやはり戦争の悲劇、でしょうから。
エレンの存在がどのような意味を持つかと言うと、さらっと演じてしまえばキムからクリスを奪った存在、というだけになりかねないのですが、I STILL BELIEVEという素晴らしい曲をキムと二人で歌っているということからも、単純にそれだけの存在ではないと思えました。私がほのかさんのI STILL BELIEVEで泣いたからかもしれませんが・・・(笑)
私はミス・サイゴンの登場人物の中で一番共感を覚えるのはエレンかな、と思うのですが、それは今平和な日本に生きていて、戦争が他の国で起きていても、実際にはその痛みを感じてはいない、という立場が一番近いから、だと思います。エレンって、そういう多くの平和な国に住む人々の代表のような存在に思えました。私には。
エレンのキムに対する態度は、イコール平和な国に生きている人間が戦争の悲劇に直面した時の態度、とも読み取れるように思いました。深読みしすぎって気もしますが・・・(汗)
キムに対して優しくあろうとするエレンは、裏を返せば、その苦しみを本当には理解していないのに、貧しい国の人々に優しくあろうとする、先進国の無知、高慢、偽善にも思えてしまうのです。高みから見下ろしているような・・・
むしろ、クリスが愛していた人なのだと、一人の女性として対等に敵意を持つエレンの方が、キムに対して真摯に接しているように、私には思えるのです。
最後にタムと対峙するエレンが何を思うのか・・・。タムがかわいそう、というだけではやはりキムに対して失礼な気がしてしまうのです。
キムが自分の命を懸けて託した子供。その子供を受け取るということの重さを、タムをじっと見つめるエレンは噛みしめ、自分にできるのだろうかと問いかけてていたのではないでしょうか。
高橋由美子さんのエレンは、かなり長い間見つめたあと、最後にようやくタムの手を取りました。「この子を受け取ろう」と決意したということなのだと思いました。
ほのかさんのエレンはタムの手を最後まで取らなかったそうですが、幕が下りるあの時点ではほのかさんのエレンはキムが託した「重さ」を受け止めきれていなかったのではないかと思いました。それだけキムの想いを深く受け止めていたのではないかと思うのですか。単なるこじつけかもしれませんが(汗)ほのかさんだったらそういう役作りはしそうな気がします。
(とか言ってファンレターに色々書いて、後で「いつも目からウロコの意見をありがとうございます」とか言われてしまったことがある私・・・つまりハズしてるってことじゃん(笑))
印象的だったのは、高橋由美子さんがエレンだった時は井上芳雄さんがクリスだったのですが、エレンがタムの手を取った後そのエレンの姿を振り返って見ていました。
もう一回の時は石井一孝さんでしたが、エレンの方は見ちゃあいませんでした(笑)これはクリスの違いなのか、エレンによる違いなのか。ちょっぴり気になります。

しかし、私はミス・サイゴンのラストを見て、タムが幸せになれるとはあまり思えませんでした・・・。いくら幼いとは言え、母親が死んだところを目の当たりにし(直接見てないにしても、絶対倒れているところは見てるし・・・)、引き取られてもどう考えても混血児として差別を受けたり、苦しい思いをするでしょう。もしかしたら幸せになるかもしれませんけど・・・
キムの選択は本当ならするべきではなかった選択なのでしょう。でも、トゥイを殺してしまった罪の意識、そしてクリスが昔のままで救いに来てくれなかったという事実に絶望したキムの選択は、理解できるし、責めることもできないと思いました。
全ては戦争が引き起こしたこと。その苦さを孕んだ終わり方に、本当によく出来た物語だなあと思いました。
でも、その苦さが、どこか心から作品にのめり込めない理由なのかもしれません・・・本当によくできているし、それでいいのだとも思うのですが・・・
コメント (2)
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トールキンの描く女性について

2004年11月26日 | 指輪物語&トールキン
SEEギフトセット、仕事から帰ってからでも余裕で予約できたと思ったのですが、夜には完売してしまったそうで。いやー、結構危なかったんだなあ・・・(汗)予約できて良かったです。
TTTの時も完売したそうですが、TTTのギフトセット買ったって人、私の周囲ではきいたことなかったんですが(汗)今回は皆買うと言ってましたし・・・前回と同じ5000セットは少なすぎだったのではないでしょうかねえ(汗)

さて、今日のお題です。
常々不思議に思っていたことがあります。トールキンは割りと人種差別的な面とか(汗)保守的な物語の描き方もしていると思います。そのあたりには「古さ」も感じたりするわけですが、一方で、女性の登場人物像が、当時の作家としては画期的なくらい新鮮だと思ったりするのです。
何が新鮮かというと、女性の視点から見て魅力的な女性というか・・・いや、女性の視点から見ても「不快でない女性」だというのが正しいのかも・・・
エオウィンは女性にはとても人気があると思うし、ガラドリエルも人気があると思います。と言うか、この二人を「嫌い」という女性読者ってあまりいないのではないでしょうか。
男性作家が(小説に限らず、映画でも舞台でも)女性を描いた時に、「男に都合の良い女性」として描いている場合というのはとても多いと思います。私はそういうのを見ると非常に腹が立つ方なんですが(笑)誰とは言いませんが浅○○郎とかね・・・(汗)
かと言って、フェミニズムの意識バリバリで描かれた女性というのもそんなに魅力的ではなかったり。最近は映画なんかでも男顔負けに「強いヒロイン」が多いですが、そういうのにもちょっと食傷気味ですね(汗)強かったり目立っていればいいと言うわけではないと思います。映画のアルウェンが女性にすこぶる人気がないのを見てもわかるような気がしますが・・・(汗)
トールキンに話を戻しますが、まず、トールキンは女性を非常に敬意を持って描いていると思います。トールキンの作品に出てくる女性は男性の欲望の対象では決してなく、男性にとって都合の良い存在でもありません。ある意味騎士物語に出てくる姫君のような存在ではあると思います。男性が敬愛し、命を賭けて戦った末にようやく辿り着ける相手であるような。
それでいて、ただ人形のような存在なのではなく、(アルウェンはちょっとそうかな~と思いますが・・・)特にエオウィンなど、不思議なくらい女性の(というか少女の、かな)心理のある面を巧みに描写していて、新鮮な驚きでした。今でも読み返す度に驚いています。
不思議なのは、そんな風に女性を描きながらも、女性の登場人物がとても少ないということでした。トールキンの女性観ってどんなものなんだろうと気になっていました。
その答えのヒントを与えてくれたのは、「J.R.R.トールキン~或る伝記」と「終わらざりし物語上」に載っている「アルダリオンとエレンディス 船乗りの妻」でした。
「或る伝記」を読むと、トールキンがエディス夫人と引き裂かれても忘れることが出来ず、ほとんど強引にエディス夫人をカトリックに改宗させて結婚をしたこと、それでいて男性同士の付き合いが面白くてしばしば夫人の存在を重しのように感じていたこと、がよくわかります。
それでもトールキンはエディス夫人を深く愛していて、晩年エディス夫人のためにボーンマスに転居するあたりなどにはそういった愛情と償いの気持ちがうかがえます。
「アルダリオンとエレンディス」にはそういうトールキンのエディス夫人に対する気持ちの一端が描かれているように思えて、私としてはとても興味深く読んでしまいました。
この物語のなかでトールキンは、大地(=家庭?)に根ざした暮らしを望む女性と、
世界に旅立ちたいという気持ちを持ち、大きな視野で物事を見る男性との根本的な大きな相違、を描いています。この相違があるから、根本的に男性と女性は理解しあえないのだと。
それでいて、女性側の気持ちも細やかに描写されていて、エレンディスもまた哀れであることもきちんと描いています。
それでも、最終的にはやはり「広い視野で物事が見られる男の方が偉い」みたいなニュアンスになっているのですが・・・(汗)それでも、かなり頑張って女性側の気持ちも描いていると思いました。
この物語、私にはどうしてもトールキンがエディス夫人との結婚生活で考えたことが書かれているように思えてなりませんでした(汗)エディス夫人への謝罪の気持ちと、でも同時に自分への言い訳も含まれているような(汗)
まあとにかく、私は「或る伝記」と「アルダリオンとエレンディス」を読んで、トールキンの描く女性像についてなんとなく納得できたような気がしました。
トールキンの描く女性が女性にとって不快ではない理由、それは、トールキンのエディス夫人への気持ちとリンクしているように思いました。トールキンにとって女性とは男性が敬愛を捧げるべき存在であって、男性に尽くしてくれるような「都合の良い存在」ではなかったし、そういう存在を必要としたり、理想としたりはしていなかったのかもしれません。
そしてその一方で、女性には所詮男性の気持ちはわからない、という考えからか、旅の仲間たちは男性だけで強い友情を結び、女性の登場人物はとても少ないのかもしれない。なんてことを考えてみたのですが・・・

それにしても不思議なのはエオウィンの存在です。今まで書いて来たような、エディス夫人との関係だけでは収めきれないような、不思議な存在だと思います。男性が敬愛すべき姫君であることなどは共通すると思うのですが、自分の現状に閉塞感を感じ、高みに上ろうとすることで脱出しようとしていたエオウィンのキャラクターは、とても珍しい女性像だと思います。
そのエオウィンがファラミアによって癒される?ところもすごいなあと思うのですが・・・。普通、勇ましい女性が恋をして剣を捨てて女性らしくなる、なんてシチュエーションは好きではないのですが、エオウィンの場合はそうは思わなかったのが不思議でした。これは、ファラミアがエオウィンに最大の敬意を持って口説いてくれた(笑)からかもしれませんが。
エオウィンがトールキンの頭のどこから出てきたキャラクターなのか、というのが今とても気になっていることです。
コメント (7)
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