ミュー ・ 百花春至為誰開

月山・葉山・野菜つくり・短歌・スケッチ   初夏の朝日連峰&果樹園 (寒河江市)

空即是色・・・・・・・・・・・・・・・大川小学校の悲劇 (3/5)

2011-11-02 | Weblog
望郷のバラード(オーケストラ).wmv


雄勝町を後にして

生徒74名(在校生108名) 教職員10名(全教職員13名)

震災で多くの犠牲者を出した大川小学校へ向かった

雄勝町から大川小のある釜谷まで 僅か5kmの距離

山深い 海から離れた峠道だった

途中 対向車や後続車に会うことは無かった

ひっそりとした 寂しい山道だった

峠を過ぎると間もなく

目の前の視界が 突然開けて来た

新北上大橋 2011/10/12

北上川 上流方向 


とても川の景色とは思えないような

雄大な風景が広がっていた


北上川は

東北一の河であり 

日本でも4番目に大きな河である

又 日本一高低差の少ない

緩やかな流れを誇っている

その名にふさわしく

実に穏やかな流れをしていた 


海から吹き上げて来る潮風

川面一面に 鱗状の波紋が拡がっていた


風にざわめく川面に

歪んだ碧空と雲の形が

逆さまに映し出さていた


過去を忘れてしまいたいほど

懐かしい清純な

潮の香りがした


大河に漂う 

秘めたる震災の面影

ふと・・・・・目が泪で潤んだ


千年に1度の大惨禍


実に河口から50kmもの距離を

津波は席捲して行った


あの日・・・・・・・・・・・ 

暴君の如き 荒れ狂った大河


全てを掻き消すように

その日 悠久な時の流れを

静かに刻み続けるていた


長く遠い 大河の果て

やがて終焉へと近付きつつあった
 

終の棲家となるべく太平洋

今はるかな旅を終へ

海へと静かに帰る


海・・・・・・・神秘

全ての生命の起源

生まれ出る歓喜と未来

時が過ぎ

・・・・・誰もがいつかは帰らなければならぬ

哀しみの場所


生命の誕生と死

1対の表裏の如く

微笑み返している


北上川 河口方向

大津波はこちらからやって来た

新北上大橋から≒4km先が太平洋である

悲劇を生んだ石巻市立大川小学校と北上川(奥)

避難場所として向かった新北上大橋のたもとにある高台(左奥)右手の建物が小学校

大川小学校と裏山


大地震後 全校生徒と教師達全員が校庭に集合した

津波の到来を予測し 

避難場所を何処にするか 協議が始まった

協議に暫らく時間を費やしてしまったようだ

この間 子供達を心配して

何人かの父母達が学校に集まって来た


現場は時間を増すごとに混乱を極めて行ったようである

結局 指定避難場所となっていた 

≒300m先の新北上大橋の

橋のたもとにある高台を目指して 避難を始める事になった

しかし 避難を始めて間もなく 

全員が大津波に呑み込まれた


地震発生から あまりに時間が経過し過ぎていた


この辺りは 地形の関係上

初めに川を上って来た津波が橋に当たって跳ね返り

前方から襲って来た

その後すぐに 陸上を上って押し寄せて来た津波が

背後から襲って来た

二つの津波が相前後して 渦を巻くように

避難途中の生徒達を

一瞬の内に呑み込んでしまった

石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波


関係者の証言によれば

例え運よくこの橋のたもとの高台まで

避難出来たとしても

橋のたもとの高台より3~4m位高い津波が襲っており

結局はより多くの犠牲者が出たかも知れなかった

学校と道路(幅≒8.0m)ひとつ隔てた所にある裏山

震災後 「何故すぐに裏山に避難しなかったのか・・・・・?」

多くの人々からそうした素朴な疑問が出ている


裏山にあった津波到達点の標識(川面より≒12~3mの高さ)

裏山への登り口

同上

裏山の実際の斜面(赤いテープが津波到達ライン)

裏山から見た震災前集落のあった場所を見る

同上

辺りの山裾


自分の足で実際に裏山を登ってみた

コンクリートの分厚い擁壁に隠れて 

脇に小道のようなものがあった

※(震災後出来た道かも)

片手に携帯電話 

もうひとつの手にビデオカメラを持って


両手に物を持った状態で

何とか手を使わず

津波到達点まで登り切った


遠目から見る傾斜より

実際に登って見た方が

案外 緩い傾斜だった

この位の傾斜なら

ほとんどの生徒が

自力で登れたような気がした


その他の周りの山裾はと言うと

一見緩そうに見える傾斜が

近付くと 初めから傾斜がきつかったり

4~5m山中に入ると

急に傾斜がきつくなったりして

ほとんどの場所が

登り切れなかった

大川小学校 校門前に作られた祭壇

花束 線香 玩具 ランドセル お菓子 ジュース類 その他沢山の供物

が山のように 手向けられていた

誰が燈したのか線香の白い煙が揺らいでいた

「○○ちゃん・・・・・きっとママが探し出してあげるからそれまで待ってってね」

と 画用紙にマジックで書かれた文字が

雨に滲んで擦れていた

そして

透明なガラス瓶に差してあった

赤いセルロイド製風車

クルクルと 乾ききった音をたて 

いつまでも回り続けていた
 

亡くなった生徒の誰かが

去年の夏祭りにでも

買って貰ったものだろう

・・・・・・・と 思った


津波で多くの犠牲者を出した石巻市立大川小学校

この他の学校でも多数の犠牲者が出ている

しかし 全校生徒の約7割近い

74名もの犠牲者が出てしまった

震災後・・・・・・・・

何故このような悲劇が起きてしまったのか

今尚 問い掛けが続いている

そしてこれからも・・・・・・・


私なりにこの悲劇を生んだ理由を問い質して見た


① 海岸からの距離≒4kmが事態の深刻さを薄れさせてしまった

  実際小学校からは海岸を見通す事は出来ない まさか海から遠く離れているここ  
  まで津波がくる筈がないと言う距離感が大きな油断を生じさせたと思われる思わ  
  れる

② 土地そのもののが建設当初から抱えていた問題

  北上川と小学校のある集落とは ≒7~8mの高さの堤防によって仕切られてい  
  たが 集落の海面からの高さはせいぜい1m前後ではなかったかと思われる

  公共建築物 特に病院や介護施設 役場 小中学校等は緊急時の避難を最優先に

  考慮した場合 最初からある程度の高台に立地計画すべきであった

③ 避難場所と避難訓練

  千年に1度と言われている未曾有の東日本大震災

  これまで誰もが経験したことが無かった 所謂想定を超えた大津波に襲われ各地

  で多くの犠牲者を生んでしまった

  しかしながら 同じ大津波に罹災しながらいち早く全員で避難し 誰一人として

  犠牲者を出さなかった小中学校が数多くあった事も事実である

  例えば道路ひとつ隔てただけの距離にある裏山にすぐに避難していれば もしか

  して一人の犠牲者をも出さずに済んでいたかもしれなかった

  いざこれまで経験したことも無いような大災害に直面すると 誰もが理性を失い

  正常な判断は困難な状態に陥ってしまう その為にも絶対に安全な避難場所の確

  保と津波に限らず日頃から災害に対する警鐘に真摯に耳を傾け そして常日頃の 
  避難訓練がおおいに大切になってくると思われる


今般の災害に限らず 終わって見ると誰もが大いなる反省点を容易く見出す事が出来

る 

全く基本的な事柄に何故誰も今まで気付けなかったのだろう・・・・・・・・と


津波 福島原発事故に限らず 

今回東日本大震災から得た貴重な教訓は 

長く後世に語り継いでいく責任と義務がありそうな気がした


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く