海軍施設本部沼津屋外実験所跡
戦争が続くと、港湾や飛行場は勿論、要塞、砲台等の設営、築城術も”独自に習得する必要性”が増し、1941年(昭和16年)海軍建築局の機能を高めた”海軍施設本部”を設立し、特設設営隊と対応したのだが”人員の養成は急務”だった。
大東亜戦争が始まり、工作術要員の増員と、更に艦船、航空機、施設等のダメージも激しくなり、整備や修造、築城等の”工作術要員が更に必要”になった。
それから米軍は、ブルドーザーやショベルカー等の土木機械が発達しており、陣地や飛行場を易々と建設していたのに対し、日本軍は、土木工事の機械化が遅れており、建設重機技術の必要性もあった。
戦争末期、1944年(昭和19年)駿東郡清水町に築城術、航空機整備術等の養成教育、研究、実験、技術者として必要な機械工学や修造技術の教育、技能者として必要な技量と経験の習得を図る”沼津海軍工作学校”が開校した。(本校は、横須賀海軍工作学校)
さて、今回調査したのは、その関係施設、海軍施設本部沼津屋外実験所跡だが(工作学校の跡地は、町や工業団地になり、記念碑ぐらいしか残っていない。)要塞、砲台、陣地等の設営術、築城術、土木建設重機技術を研究、実験していた場所だった様である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/7e/d0841be1369e1acd8497e3d53885359c.jpg)
コンクリート造りの遺構が、深い藪の中に埋もれる寸前で残っていた。
円形で、壁には四角い凹みが四つある。
これは何の施設跡だろう?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/fd/c6055a670537ec1dd75ff8fc05638ccf.jpg)
一見、貯水槽の様にも見える。
今は木や枯れ葉で相当埋もれてしまっているが、当時はもっと深かったと思われる。
中に入ってみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/d5/ea0f67b5d335595b5c13a2d1ba1e9390.jpg)
出入り口なのか、ちょうど縁が欠けたのか、ここから入った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/6d/db817e64ffcb1b834a949f82e0eb2f9f.jpg)
四角い凹みは、側溝なのか、中がどうなっているのか観てみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/8f/ce86fb0459f90fa5346adf26d7008053.jpg)
奥には続いていなく、小さな溝になっているだけだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/f4/54c083e31ef5814ef6cbd2b0172fd273.jpg)
こちらも同じく、四角い溝
今は、土等で埋もれているが、当時は、底まで溝があったのかもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/45/e7eab89fc65070d0a585c98a5478d903.jpg)
何れにせよ、実験所なので、本施設ではなく建設実験で造った物なのかもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/8c/2db7b601d2bd43bdf4a3182962c4e1d2.jpg)
縁に釘の様な物が残っている。
当時は蓋がされていた様だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/33/8e5931fceb33dc94ebf91c10574316f5.jpg)
他にも遺構が在るかもしれないので、探してみる。
Move On>>
戦争が続くと、港湾や飛行場は勿論、要塞、砲台等の設営、築城術も”独自に習得する必要性”が増し、1941年(昭和16年)海軍建築局の機能を高めた”海軍施設本部”を設立し、特設設営隊と対応したのだが”人員の養成は急務”だった。
大東亜戦争が始まり、工作術要員の増員と、更に艦船、航空機、施設等のダメージも激しくなり、整備や修造、築城等の”工作術要員が更に必要”になった。
それから米軍は、ブルドーザーやショベルカー等の土木機械が発達しており、陣地や飛行場を易々と建設していたのに対し、日本軍は、土木工事の機械化が遅れており、建設重機技術の必要性もあった。
戦争末期、1944年(昭和19年)駿東郡清水町に築城術、航空機整備術等の養成教育、研究、実験、技術者として必要な機械工学や修造技術の教育、技能者として必要な技量と経験の習得を図る”沼津海軍工作学校”が開校した。(本校は、横須賀海軍工作学校)
さて、今回調査したのは、その関係施設、海軍施設本部沼津屋外実験所跡だが(工作学校の跡地は、町や工業団地になり、記念碑ぐらいしか残っていない。)要塞、砲台、陣地等の設営術、築城術、土木建設重機技術を研究、実験していた場所だった様である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/7e/d0841be1369e1acd8497e3d53885359c.jpg)
コンクリート造りの遺構が、深い藪の中に埋もれる寸前で残っていた。
円形で、壁には四角い凹みが四つある。
これは何の施設跡だろう?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/fd/c6055a670537ec1dd75ff8fc05638ccf.jpg)
一見、貯水槽の様にも見える。
今は木や枯れ葉で相当埋もれてしまっているが、当時はもっと深かったと思われる。
中に入ってみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/d5/ea0f67b5d335595b5c13a2d1ba1e9390.jpg)
出入り口なのか、ちょうど縁が欠けたのか、ここから入った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/6d/db817e64ffcb1b834a949f82e0eb2f9f.jpg)
四角い凹みは、側溝なのか、中がどうなっているのか観てみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/8f/ce86fb0459f90fa5346adf26d7008053.jpg)
奥には続いていなく、小さな溝になっているだけだ。
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こちらも同じく、四角い溝
今は、土等で埋もれているが、当時は、底まで溝があったのかもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/45/e7eab89fc65070d0a585c98a5478d903.jpg)
何れにせよ、実験所なので、本施設ではなく建設実験で造った物なのかもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/8c/2db7b601d2bd43bdf4a3182962c4e1d2.jpg)
縁に釘の様な物が残っている。
当時は蓋がされていた様だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/33/8e5931fceb33dc94ebf91c10574316f5.jpg)
他にも遺構が在るかもしれないので、探してみる。
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