ワッフルな気分

朝の光につつまれて、
甘い香りのワッフルに苺をそえていただきます。

ワッフル旦那の思う事

2011-03-29 12:52:55 | ワッフル旦那のあれこれ

 

            

今私たちが直面している事は現代の踏み絵の様です。
今の世の安定した生活と利便性を選ぶか、もう一方を選ぶかなのです。
以下はえつこさんという方のニュースです。
http://www.muse.dti.ne.jp/~hiroba/news9/tomenakucchano9.htm

日本経団連の米倉弘昌会長は記者から「日本の原子力政策は曲がり角か」と問われ「そうは思いません。今回は千年に一度の津波だ。(地震に)あれほど耐えているのは素晴らしい」と強調。
見直しの必要について「ないと思う。自信を持つべきだと思う」と述べた。というし
与謝野馨経済財政担当相は22日の閣議後会見で、福島第1原発事故に関連し、
「日本中どこの地域を探しても環太平洋火山帯の上に乗っている国だか ら(地震が多いという)その運命は避けようがない」と述べた。
これは原発推進の立場から地震が多いことは原発を止める理由にならないとの考えを強 調した発言。

同相は「将来とも原子力は日本の社会や経済を支える重要なエネルギー源であることは間違いない」と語り、あくまでも原発を続けるべきだとの考え を示した。
重大事故があっても「原発推進の国策は微動だにしない」というもの。


          

改めて希望はイエスにしかない事を再確認しました。
人の怒りは神の義を表すものではありませんが、声は上げるべきだとは思います。
政府の援助も報道も口止め料という苦味も含んでいる様にも感じられます。

多くの人々にとって神は、まるで私たちの願いを叶えて下さるだけの神の様です。
私たちの親である方は魚を求める者には魚を卵の必要には卵を与えて下さいます。

確かに放射能物質も神の創造の一つかもしれませんが、それは人が目で感じる事も聞きとることも嗅ぐことも味わう事も感じる事も出来ない様に神は扱われ地の深い所に隠されていました。
隠すことは神の誉だったのです、本来まことの王であるイエスが解き明かす事を待つことなく地上の王たちは知識の実を太らせながらそれを探し出していきます。
自然界で本来存在する物質は原子番号92のウランまでで(一部では94のプルトニウムもどこかにはあるとも言われているが)それも自己崩壊で移行中で鉛の状態が安定した自然な形です。
原発で使用するウランは人が作りだした加工品です。しかもプルトニウムを発生させてしまう悪夢の様なオマケが付いてきます。
プルトニウムがあれば原爆は私でも作れる程で、その為輸送時テロリストに奪われない様に巨大な護衛艦「しきしま」を国税で作らせました。
これなと処理代管理費を計算すると1kw当たりの発電コストで石油の10円に対して5円とも言われる原発のコストの優位性は無くなるどころかある専門家の計算では100円以上になるとされています。

創造の6日目には非常に良かったと神の目にも見えた世界もアダムが罪を犯したその時、全ての物が汚染された様に呪いの下に置かれました。
本来神に似せて造られたアダムでしたが、セツが生まれた時の記録ではセツは神に似たものとして生まれたのではなく「罪人アダム」と同じ形として生まれて来ています。
現在の自然はある部分では神の素晴らしさを表してくれるモノではありますが、その全てに罪の深い傷跡が刻まれていて本来存在しない不自然さを伴っています。
罪がなければ化石燃料である石油やプラスチックも原発も作られる事もありませんでした。

旧約の予言者は、全ての人の罪や国の問題を自分の罪の一つとして神の前に祈りました。
現代の便利さや豊かさを享受していながら自分にはその罪が無いと言い切れる人はいません。
私たちは家族や隣人、後の子供たちの為に原発を留める事をせず、建設される事を横目に見ながら過ごしてきた世代なのです。
ただお一人、イエスだけが「あなたの罪は赦された」「わたしの心だ、きよくなれ」と宣言できるのは、彼が全ての罪を負われたからです。

神は人の、どのように愚かな願いにも耳を傾かれるように見えます。
神を知りたい者には、ご自身を表されますが、神などいらない、知りたく無い、遠く離れていて欲しい人にも

まるでその願いをかなえる様に、神から最も遠く離れた所をご用意されます。
人はその様な状態になってから「知らなかった」「聞いてない」と言うのです。
一人一人が考え英知を尽くして知る必要があります。
神は今日も祈りを聞かれています。
今、神から見て「よい」モノは新創造にある「新しく生まれた人」です。
全ての虚無に服している被造物の希望は、初穂であるイエス、そして彼の形見ともいえる、彼に似せて造られたキリスト者に置かれています。
この最も弱く貧しい者、見栄えが良くなく蔑まれている人を用いて、神の被造物中最も美しく知恵があり、力に富むサタンを倒す事が神の誉になります。
人のいかなる団結、力、知恵、意志などを用いても絶対に圧倒的にサタンに勝てないからこそ、勝利は心から主に捧げられます。
イエスがどの様にサタンに勝利されたかを、私達クリスチャンは一時も忘れるべきではありません。
負けて勝つ、死んで生きる、集まるのではなく散らされる事、一人一人が唯お一人の神の前に立つべきで、そしてあげられるべきです。
本気を出せばサタンを潰す事が出来る力を持ちながら主は八百長の様に負け、自殺する様に死なれました。

神はノアに「もう2度と水で滅ぼすことをしない」と約束されました。
神は約束を守られそれで今の世界は火で滅ぼす事になります。
私の家では薪ストーブをずっと使っています。ほとんど一生モノと言われるモノですが、どの様に気を付けて使っていても火によって絶えず影響を受け、劣化し最後はボロボロになります。
神の審判の火に耐えられるものはありません。ノアが水をくぐった様に、私たちは皆、火をくぐらなければなりません。

祭司の仕事は祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整える事です。
エゼキエルなどでも人は木に喩えられています。そしてそれは焼き尽くされます。
完全に燃えきった薪の行き着くところは真っ白な「灰」です。それは火に触れても何の害もうけませんし不思議に燃えきった灰には火の香りもありません。
ノア以後の全ての息のあるものは火によって焼き尽くされなければなりません。ただ私達には選ぶ事が出来ます。
消える事の無い燃えさかる火か、現代の善悪の知識の木の実によって実らせた原子力の炉の火か、または私を焼き尽くしていただける聖霊の火か。
生きて、日常の普通の生活の中で完全に焼き尽くしていただく事それは自分に死ぬことでもあります。
自分が少しでも残っているなら主はモーゼ以上に謙遜ですから、必ず引っ込まれます。キリストと共に死ぬからこそ彼と共に生きる事になります。
自分で自分を十字架に付ける事は出来ません。群衆がキリストを揚げたようにキリストの様に生きているなら人々はその人を揚げてくれます。

今でも、私の中にまだ燻ぶっている生まれたままの自分が燃え残っている。キリストを頑なに拒んできた古い記憶を思い出させる。
ボロボロになりながらも時折、煙をあげる福島原発は私を見ている様です。願わくば早く石棺に入れてその死の香りを振り撒く事の無い様に
ただ神の前に祈ります。イエスの名によって祈ります。
それは私たちがイエスに似たものとして新しく生まれたからこそ、いつでもどこでもどんな時でもどんな願いでも父が叶えて下さいます。

        

            私たちはいつまでも主の家の憩います。
                主の御名はほむべきかなです。