何年か前に「介ける(たすける)、護る(まもる)」という文章を書きました。
今、改めて「介護」の意味が問われようとしています。
高齢者に関わらず、子ども・障がい者など生活をするために周りの人の支えが
必要な人たちが事故や事件に遭うニュースが毎日のように報道されます。
そこには家族であるが故の善意の行動もありますが、悪意に満ちた行動も
多く見受けられることは間違いありません。
僕たち福祉に携わる人間としては、「介助」ではなく、「介護」と表現
されているのは何故かを今一度考えてほしいと思います。
何を護るのか。
きっと、それは身体的なものだけではないはずです。
そして精神的なものだけでもないはずです。
きっと、その人が積み上げてきた、あるいは積み上げていく人生そのもので
あるべきだと思うのです。
僕たちのような高齢者福祉の人間が関わらせてもらうのは、長い時間を生きてきた人たちです。
その人たち一人ひとりの物語があります。
波乱万丈の人生を歩んできた人もいるでしょう。
穏やかな人生を歩んできた人もいるでしょう。
その物語の終盤に脇役として出てくる介護者がすべきことは主役を介け、護ることです。
様々な物語があるけれど、その全ての物語にハッピーエンドを求めるのは介護者のエゴでしょうか。
今、改めて「介護」の意味が問われようとしています。
高齢者に関わらず、子ども・障がい者など生活をするために周りの人の支えが
必要な人たちが事故や事件に遭うニュースが毎日のように報道されます。
そこには家族であるが故の善意の行動もありますが、悪意に満ちた行動も
多く見受けられることは間違いありません。
僕たち福祉に携わる人間としては、「介助」ではなく、「介護」と表現
されているのは何故かを今一度考えてほしいと思います。
何を護るのか。
きっと、それは身体的なものだけではないはずです。
そして精神的なものだけでもないはずです。
きっと、その人が積み上げてきた、あるいは積み上げていく人生そのもので
あるべきだと思うのです。
僕たちのような高齢者福祉の人間が関わらせてもらうのは、長い時間を生きてきた人たちです。
その人たち一人ひとりの物語があります。
波乱万丈の人生を歩んできた人もいるでしょう。
穏やかな人生を歩んできた人もいるでしょう。
その物語の終盤に脇役として出てくる介護者がすべきことは主役を介け、護ることです。
様々な物語があるけれど、その全ての物語にハッピーエンドを求めるのは介護者のエゴでしょうか。