このところ喪中欠礼のはがきが届くようになった。
まだ親とか祖父母が亡くなったとの知らせは寂しい
けれど歳の順だからと慰めも付く。
その方を知らないのでなおさらだ。
でも当人が亡くなったとのご家族からの便りは
本当に寂しい。
長い間会っていなくて年に1度の年賀状だけの
付き合いになっている人が大部分である。
お互いに「会いたいね。今年こそ」と書き添えながら
本年もまた同じことを綴っている。
昨日届いた年賀欠礼はがきはかなり辛かった。
先日頼んでおいた年賀状が印刷されて届いたとき、
ふと「この人には今年は書かないことになるのかな?」
と思った人がいた。
縁起でもないとすぐ打ち消したが、その通りになったのだ。
高校1年のころ当時の受験雑誌に詩の投稿欄があって
時々投稿していた。
抒情性に乏しい作品だったが選者の好みに合ったのか
入選、特選などによく選んでもらった。
この時期は今では想像もできないけれどペンパルが
流行っていてずいぶん手紙をもらった。
学年が進むにつれて詩の投稿もやめたし文通友達も
減っていった。
もちろん何人かは残って今でも交流が続いている人もいる。
彼はそのペンパルの1人だった。
大学生になって東京のお宅にお邪魔したこともあり、
彼が我が家に来たこともある。
卒業するとき、東京での就職もちらと考えたが
わたくしは自活する勇気がなかったので地元の
県で仕事に就いた。
最初の勤務地は自宅から通えなかったけれど
洋服類はすべて母親に出してもらっていた。
就職して2年目に入ったころ彼から便りがあって
「父親とともにお邪魔したい」という。
そのころわたくしはごく痩せで食欲もなく胃腸専門病院と
大学病院で診てもらった結果十二指腸と胃に潰瘍があると
診断された。
大学病院は若い研修医がたくさん居並ぶ場での診察だったので
懲りて結局胃腸病院に3か月入院した。
そのような時に来られても困る、こちらはそれどころではない。
きっぱりお断りした。
その後何度か連絡があったけれどすべて無視。
これで縁は絶えた。
何十年も過ぎてひょんなことから消息が分かり、息子のところへ行く
機会に会うことになった。
ずいぶん迷った。いまさらという気もした。
東京駅丸の内中央口。雑誌をもっているという。
老年の男性が立っていた。
お互い様だけれど若かった時しか知らないので不安だったが
すぐに分かった。
銀座で食事をし、喫茶店に入って話したけれどやはり
気持ちは浮き立たなかった。
帰りの電車で「やはり会うべきではなかったかなあ。
もう会うこともあるまい」と思っていた。
ところが3か月ほど過ぎたころ「(わが市の)近くの市の
古い町並みの写真を撮りに行きたいので案内してほしい」
と言ってきた。
退職後写真撮影を趣味にして各地に出かけると言っていた。
名古屋駅まで迎えに行き、実家の弟に頼んで車でその街並みを案内した。
4年前わたくしが慈恵医大に入院して病室から東京タワーや増上寺を
まじかに見ながら彼の実家はこのあたりだったなとふと思った。
彼の実家は港区のタワーすぐのところで開業医をしていたから。
今年の年賀状に胃にポリープが出来たり、いろいろ具合が悪いところ
が次々出てきていると添え書きがあったのでもしやと思ったのかも
しれない。
その予感が当たった。
昨夜は気持ちが重かった。
やはり寂しい。