~ 恩師の御講演より ~
「一粒の籾」
「一粒の籾」を春の水田に投じ、静かに観察すれば、
やがて芽が出て最初の一株が数株に増え季節と共に成長し、やがて秋には稔るでしょう。
これは「一粒の籾」であっても命を持っている証であります。
この命は私達の命と全く「同質同根」の神様から授かった命なのです。
彼等は一言も文句を言わず愚痴もこぼさず、私達の生命の糧となってくれています。
唯一の違いはそれが「動的」であるか「静的」であるかのみです。
もしも、私達が「籾」の立場だったとして、
彼らのように自らの命を他の命の保持のために何の文句も愚痴も言わずに差し出すでしょうか。
答えはそらく「否」でしょう。
私達もたまには「自己保存」「自我我欲」の生活を「止観」する時間を持ち、
お茶碗に盛って頂いた米粒ひと粒ひと粒を心静かに眺めれば、
おそらく胸に熱いものが込み上げてくる筈です。
米粒ひと粒、小魚一匹、野菜一切れ、動物、植物、鉱物(水)の命を戴く事により、
私達の命が保持されている事実を誰も否定出来ないでしょう。
彼らに報いる唯一の道はその命に対し感謝し、無駄にしないと言うことなのです。
戴く前に手を合掌する形だけのものではなく・・・
あなた達の命を戴かせてもらいますが、どうぞ私の血となり肉となって
私と共に魂の修行に励んで下さいと心の中でお願いし、
戴けば私達の大きなエネルギーとなって下さることでしょう。
・・・と、恩師「長尾弘先生」はお説き下さいました。
※ 恩師の歌集「神様と私」より ※
有難や 米一粒の一粒に
神の御命 我れ給わらん
~ 感謝・合掌 ~