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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

父の『引揚げ記』  (10)

2017年10月16日 02時06分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
田舎では一番晴れてほしい「稲刈り」のときなのに、雨のよく降る天気がつづきます。きのうの日曜日は、コンバインも動けませんでした。うちはウッドデッキにオーニングを繰り出して、黒豆の枝豆をあちこちに送りました。大志くん一家も枝豆にするのを手伝ってくれました。


  父の『引揚げ記』  (10)

    昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で   ※ 漢字、仮名遣いは原文のままにしています。


 警察官は腰にピストルを下げて町中を歩き廻って警戒している。そんな物騒な毎日が続いている或る日、パンツ一枚だけはいた裸の日本人が入り込んできた。
 彼の言葉によると漢口から逃れてきたという。ソ聯兵が入り込んできたので夢中で山の中に逃げ込み、一週間も知らない山の中の道を歩き続けて、やっとここまで辿り着いたという。彼の持っているものといえば、五合ばはりの米だけである。彼はその米で山の中で炊事しながら夢中で歩き続けたのだという。若しソ聯兵が入ってくれば、真っ裸にされて、ソ聯領に連れて行ってしまうというのである。
 この男はこれから京城まで歩いて行くというので、伊川ではその男を保護し、食事や洋服を與えてやった。男は涙を流し、何度も何度も頭を下げ、多くの日本人に見送られて出発していった。
 そのうちにソ聯兵がどんどん侵入してくる、という噂が次第に広まってくる。一度ソ聯兵に捕まると、こっぴどくいじめられる。殺された者もあるとか或いはソ聯領に引っ張られて行ったとかいう噂が流れて、伊川の日本人は「ここにいては危ないな。早くどうにかしなくては」と皆がささやき合った。
 そこで警察が世話をして、一般市民は京城まで引揚げる事になった。各人は手廻りの荷物一個ずつ持ってトラックに乗れという事であったので、皆トラックに乗り込む。
 ところがその一台のトラックに乗れない人々はどうする事も出来ず、後に残されてしまった。私もぐずぐずしている間に取り残されてしまった。取り残された人々は気が気でなかったが、どうにもなす術がなかった。
 頼りにしている警察の人々も、別の一台のトラックにたくさんの荷物と一緒に乗り込んで、春川へ引揚げる為に出発していってしまった。
 伊川には後にわずかばかりの日本人しかいなかった。そのわずかの日本人の中に取り残された私は、なす術もないので、例の腹の大きい奥さんをかかえている日本人学校の校長の家へ行く。
「いよいよ残されたなあ」
 と私がささやくと、
「私の家は子供が生れるまではどうしても動けない」
 と校長が云う。
「お気の毒ですなあ。それまでソ聯兵が入って来なければいいが」
 二人で話していると、そこに一人の朝鮮人巡査が入って来て、
「ソ聯がすぐそこまで入り込んで来たという通知があった。早く引揚げて下さい」
 と急いで知らせた。
 それはもう昼近い暑い夏の日であった。
 引揚げて行く私達一行は、日本刀を持っている警察官と他に校長をしていた人の二家族計十二名である。警察官の家が、親二人に子供三人、校長の家は親の外に小さな子供四人、それに私を加えて十二人なのである。
 十二名の日本人が目指すは先ず鉄原だということで、歩き出す。背に負った荷物は重く、気ばかり焦って足は思うように運ばない。ソ聯兵に追いつかれたらそれまでである。何度も何度も後を振り向いては歩き続ける。
 子供がいるのであまり早くも歩けない。とうとう堪えかねて、警察の人は皆を待っていることができなくなり、どんどん進んで行ってしまった。後の残されたのは校長の家族と私だけである。
「道路を歩いたらソ聯兵に見つけられる。山の中に入ろう」と校長は云う。
「この山を越したらどこかへ出るだろう」などと話ながら山に入っていく。いままで一度も登ったことのない山だから、どこをどう歩いていいかわからない。道がある方向に向かってどんどん歩く。だが歩いている間に進んで行く道がなくなってしまった。
「これからどうしたらよいだろう」
「この山を越したらどこへ出るだろう」
「鉄原まで辿り着いたとしても、鉄原はもうソ聯兵が来ているという事なのでどうにもなるまい」
 行く先は全くの暗闇である。
「まあとにかくご飯を炊いて腹ごしらえをしよう」
 と校長の奥さんが云う。
 そういえばもうとっくに正午は過ぎて、午後二時になっている。皆は飯を炊くとそれをお握りにしてぱくぱく食べた。腹ごしらえが出来ると少し元気になる。
「こんな道のない山の中を歩くより、よくわかる道路に出て歩こうではないか」
 という相談がまとまり、再び一度歩いた事のある道路に出た。    (つづく)
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父の『引揚げ記』 (9)

2017年10月15日 01時05分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 雨が降りそうな、また降るときもある、そんな天気の一日でした。それでもコンバインは田んぼを走り、稲刈りがすすみます。ずっとこんな天気の予報なので、仕方ありません。ぼくらも畑に出るかどうか。思案しても仕方がないので黒豆の枝豆を採りました。ぼくは公民館周りの草をナイロンコードで刈りました。ちょっときれいになった感じです。老人会でやるつもりでしたが、稲刈りの主力は老人会のメンバーです。こちらでやることにします。

     父の『引揚げ記』 (9)

     昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 用字、仮名遣いは原文のまま

 鉄原の近くの駐在所の主任は、河原に引っ張り出されて叩き殺され、家は焼かれてしまったという事であった。だが殺された日本人を、惜しいことをしてしまったと誰か嘆いてくれたであろうか。それはその家族だけであった。後の日本人達は自分がいかに生き延びるかの思いで一杯であった。
 実際に朝鮮人は終戦までと比べてみると、打って変わった態度であって、その変りようはあきれるばかりであった。
 十七日夜になって、伊川郡に住っている日本人達がそろい、お互いに無事である事を喜び合った。殺されたとうわさの校長もやっと晩になって辿りついて、無事である事が知れてほっとした。
 各家庭では食糧を持っていないので、当分の食糧という事で一人あたり二升ずつの米が配給され、各旅館とか或は心安くしている知人宅だとかに厄介になる。
 伊川郡内に住んでいる日本人が全部集ればそれでも六十人位にはなる。それ等の日本人は全く朝鮮人の敵兵に囲まれたようなものであるから、日本人同士で昼となく夜となく寄り集って、伝わってくるデマとか或いはどこまでが真実かわからないような噂を話し合う毎日であった。
 広島に大きな爆弾が落されて、大変多くの人が死んだとか、誰かれは鉄砲で打たれて死んだとか、或いはソ聯兵が進入してきて、多くの日本人は命からがら山の中に逃れて山の中で暮らしているとか、話は次から次へと尽きなかった。
 私はお世話になっている校長さんの奥さんのお腹があまり大きく苦しそうなので、ご厄介になるのが心苦しく、とうとう朝鮮人の旅館に宿泊する事にした。
 その旅館には同じく校長をしている日本人が泊っていて、その人も妻子を内地に残しているので、いろいろな事を話し合った。
「若し米人が入り込んで妻が辱められていたらどうするか」
「まあ仕方があるまいなあ」
「お前は許すか」
「許すより仕方があるまい。どうせ日本は戦争に敗れたんだから、それ位我慢しなくてはなるまい」
「うん、俺もそう思うなあ」
「俺は日本に帰ったら百姓をする」
「俺はこの際自由な立場で職業を探す」
「だが何といっても早く帰って日本の様子が知りたいなあ」
「早く帰って妻子に会いたいよ」
 日本人がちょっと集まると、早く帰りたいという事が嘆息のように口をついて出てくる。しかし朝鮮に長年住って、朝鮮に多くの土地や借家を持っている人々はそれに執着して、「ここに止まってこの土地の土となる」と頑張る。或いは「せめて今までの財産だけは處理して行きたい」という者もいた。
 だが周囲の事情はだんだん物騒になって、朝鮮人が暴動を起こして、日本人が殺されたという噂が流れる。或いはこの伊川でも暴動が起こればいよいよ覚悟を決めなくてはならない。若しそんな事が起ったら、日本人は皆警察に立籠もって、いさぎよく戦って死ぬるのだとうような司令が、秘密のうちに上の方から日本人に伝えられる。
「いよいよ最後の時が来たか」日本人の誰もが顔をこわばらせて緊張する。警察に集まった日本人は、最後の戦いに警察に保管してある二十丁ばかりの銃を持って敵に向って行こうという事であった。
 こんな不安な日が、二、三日続いたある日、武装した日本兵が十名ばかり伊川に入り込んできた。すると今まで大騒ぎしていた朝鮮人の示威運動はぴたりとやんだ。兵隊達は何もする事がなく、二、三日で他へ移動していった。するとまた金を鳴らしながらの示威運動が高まるという風であった。
 朝鮮人達は日本人に何か因縁をつけて、事を起こそうとしているのである。わざと日本人の前に立ちふさがり、何かわけのわからぬ朝鮮語で罵り、じろじろと睨みつけたりするのである。若しそれに逆らおうものなら、団体の力をもって日本人に刃向って行こうという雰囲気である。これ等腰の高い朝鮮人に対して日本人はじっと我慢するより外なかった。  (つづく)
 
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父の 『引揚げ記』 (8)

2017年10月14日 01時03分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 山田錦の稲刈りの時季なのに、雨がちの天気がつづきます。大雨なら仕方ありませんが、これくらいの雨なら刈ってしまおうと、きのうもコンバインが動きまわっていました。今年の実りはわるくないし、スカッと晴れたらいいのですが。
 ぼくらも、「畑に出ようか出まいか」と迷う天気でしたが、結局家でぐずぐずして過ごしました。


 父の『引揚げ記』  昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で (8)
                                  ※ 用字、仮名遣いは原文のままです。

 焼けつくような太陽は照りつけている。その暑い道を一歩一歩と歩いて行く。両手は荷物や子どもに奪われているので、顔から流れる汗を拭うこともできない。目にしみる汗をまばたきしながらひたすらに歩く。
「日本はなぜ負けたのだろう」
 と奥さんが嘆く。
「私達があれ程頑張ったのに。その努力も何の役にも立たなかったのね」
 お互いにどうにもならない事であるが、つい嘆きは口をついて出てくる。奥さんの背の子供は飢えと暑さのため泣き出す。それにつれてその上の子供も泣き出す。大人も子供も皆情けない心持ちで一杯である。そして重い足を引きずりながら伊川へと歩いて行く。
「頑張るのよ。日本は戦争に敗けたんだから仕方がないの」
 母は子供をやさしく励ましながら歩く。すると背の子は益々大きな声を出して泣き出した。背の子は空腹に耐えられなくなったのに違いない。母も今朝から何も食べていないので乳も出ない。
 母はとうとうたまらなくなり、道の横の畠に作られているトウモロコシをもぎると、それを生のままかじり、それを子供に與えようとする。それを畠の主の朝鮮人が見つけてとがめる。母は朝鮮人に拝む頼むと云いながら、何度も頭を下げる。その哀れさによって、やっと三本のトーキビにありつく事ができた。
「先生、すみませんねえ。日本人がこんな恥かしい事をして」
 と奥さんが云う。
「いや、仕方ありませんよ。もうお昼になりましたからね。子供も可哀相ですよ」
 となぐさめる。
 喉が乾いて子供達が水を欲しがる。大人達もさっきから喉がからからで水を飲みたいのだが、その一杯の水もまわりの人に頼んで恵みを乞う事もできない有様である。まわりの朝鮮人は、鋭い目で私達を眺めるばかりである。戦に破れた日本人の哀れさ、頭もまともに上げて歩けないのである。
 それでもお昼も過ぎて、やっと憧れの伊川に辿り着く。伊川は無事であった。伊川といえば伊川郡では一番大きな巴(あら = 町のこと)で日本人も合わせて十名位は住んでいる。何といってもこの付近の中心地である。その中心である伊川の近くの面からは、一人か二人しかいない日本人達がぞくぞく集ってくる。
 私はまず日本人の旅館を訪ねたが、「あなたは一人だから何とかしてくれ」とすげなく宿泊する事を断られた。後からこの日本人旅館に集ってくる日本人家族は、拝む頼むでこの旅館に泊る事になる。
 私は仕方がないので、同じ日本人である校長の家に厄介させてもらえないかと頼む。この人は日本人学校の校長で、同じ鳥取県出身であった。生徒といっても一年から六年まで八人いて、それを校長が教えているのである。その住宅に頼み込んだのである。
 だがこの校長さんの奥さんは大きなお腹をしていて、いつ子供が生まれるかわからないという有様である。それでも同県人出身のよしみで快く引き受けてくれたので、ほっと安堵の胸をなで下ろした。
 伊川でも独立の示威運動がさかんであって、毎日毎夜鐘を鳴らし叫び続けて、騒々しい日々が続く。そのうちにいろいろなデマが飛ぶようになった。
 どこそこの駐在所の主任は叩き殺されたとか、どこの校長は叩かれて大怪我をしたとか、どこの面長の家は日本に協力した事で、その家を叩き壊されたという噂であった。どこからどこまでが真なのか偽なのか区別がつかない。
 実際、面長はどこの面長も、敗戦と同時に山の中に姿を隠さねばならない程、同じ朝鮮人でありながら日本に協力した事で憎まれていたのである。どこの駐在所もその主任は、またその他の巡査もすべて逃亡しなくてはならなかった。 (つづく)
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父の 『引揚げ記』   (7)

2017年10月13日 01時51分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
    父の『引揚げ記』  昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で  (7)
 

 間もなく三人の若い朝鮮人が走って来ると、その中の一人が私の前に立ちふさがり、何やら朝鮮語で叫ぶ。何の事やらわからないので突っ立っていると、
「なぜあの時、私を叩いたか」
 と日本語である。そういえば前に立っている男は、私が長をしている青年特別訓練所の生徒で、度々頬を殴って鍛えた男である。
「それは立派な日本人にする為だ」
 とは云えない今であるので、唯黙ってうつむいていた。
 その男は「ぐゎん」と私の頬に一撃を食らわせると、主任が走って行った方向に駆けてゆく。私は無念で仕方がないが、すぐそこの畑には朝鮮の人々が農具を手に眺めている。手出しをすることができないので黙って進んでいくと、主任は棒を持った男達に追いつかれて、取り囲まれている。主任は道の横に小さくなって、「どうか許してくれ。許してくれ」と手を合わせている。それは今日まで威張りちらした報いなのだから仕方あるまいと思う。
 仕方がないので私が「どうか許してやって下さい」と仲に入る。
 私が云い終ると同時に三人の若い朝鮮人は、持っていた棒でばしばしと叩きだした。頭といわず顔といわず背中も腹もめった打ちに叩く。
「助けて!」と小さい声で云い、主任は頭をかかえて道路の溝に伏す。奥さんは女であるから叩かれないが、私も頭や顔や背中を相当叩かれた。主任は声をあげて泣き出す。そして頭から或は顔から血が流れている。私も叩かれているのだから、どうする事もできない。主任と私は唯叩かれるに身をゆだねるより仕方がなかった。
 いきり立った朝鮮人は口々に罵りながら、棒を振り上げては殴る殴る。奥さんが仲に入って静めようとするが、興奮した朝鮮人はおさまりそうにもない。
 遂に主任を川に叩き込んでしまおうと云い出した。これはたまらないと思っていると、幸いにもその時、平常心安くしている朝鮮人で、の長でもある人が仲に入ってなだめてくれたので、命だけはとりとめる事ができた。
「ひーひー」と変な悲鳴を上げながら、顔中血だらけにして、主任はやっとのがれ出る事が出来た。
「お父ちゃん、日本刀持ってくればよかったのに」
 大声で泣きながら子供が声を出す。
「いや、持ってこんでよかった。大事の前の小事だ。若し私が朝鮮人でも殺したらそれこそ大変なことになる。自分さえ辛抱すればそれですむ事だ」
 と主任は息を切らしながら云う。
「そうよ。正さん。これからはいろいろな事があるかも知れないのよ。もっともっと苦しい事が待っているかも知れないのよ。そんな時じっと辛抱して、頑張らなくてはならないのよ。日本が戦争に負けたから仕方がないの」
 と奥さんが子供に教える。
 子供はそのお母さんの深い意味がわからないので、
「そんな事はない。日本刀で切ってしまえばよかったんだ」
 と叫んでやまない。
 主任はみちの側を流れる小川で、顔や手足の血を洗い流し、叩かれて腫れ上った体を引きずるようにやっと歩いて行く。
 哀れなかっこうで歩いていると、道路わきに親切な朝鮮人がいて、西瓜を食って行きなさいという。そして畠から西瓜をむしってきた。
「有難う、有難う」とお礼を云いながら、私達一同はその西瓜をごちそうになる。主任の顔の傷からは、まだ血がにじんで痛々しい。
「あの三人はなぜあんなに私達をいじめたんだろう」
 と私がいくと、
「さっきの三人は、米の供出を拒んだので、あの三人の父が主任にこっぴどく叩かれて病気になってしまったんだ」
 と主任が云った。
 三人の若者に散々に叩かれ、いじめられた私達は重い荷物を持って、子供達の手を引いて伊川へ伊川へと歩き続けた。   (つづく)
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父の『引揚げ記』 (6)

2017年10月12日 02時06分12秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うちの村の公民館が投票所になる。草が生えてるし前庭の花も枯れている。他所の村の人も投票に来るのできれいにしたほうがいい。老人会できれいにしようと、まずぼくが前庭の草を、きのうナイロンコードで刈りました。あとは数人の老人会仲間にも声を掛けて草刈りをします。畑の草も伸びてきました。畔の内側の遊歩道スペースも草が伸びています。草刈りにも精を出さなくては。


     父の『引揚げ記』  昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で     (6)
 
 私は約束を無にされた事に腹を立てながら駐在所を離れる。
 今は天下に唯一人。敵の中に残された唯一人、思ひは遥か日本にはせながら、ひたすらに伊川へ伊川へと足を運ぶ。西面から伊川まで約15キロメートル、唯ひたすらに足を運ぶ。
 途中まで来ると、人気のない川原で駐在所一家の人々が朝の食事の真っ最中であった。聞けば家に居ては危険が迫ったので、命からがらここまで逃げて来たというのである。地べたに座る所もないので、皆が立ったままおにぎりを口に投げ込んでいた。母はおひつを抱えて、おにぎりを握っている。それを父や子供たちが受け取ると、次々と食べている。この広い天下に、座って食べる事のできないこの哀れさ。敗戦国日本の人々であった。
 昔国史で教わった七部卿の都落ちも、ちょうどこんなであったのではなかろうかと、つまらない感傷にふける。
 朝早く朝鮮の人々が駐在所に押し寄せてきて、主任は朝鮮人にさんざん殴られたという事であった。そう聞くと約束を無にした事も仕方がなかったんだと納得がいく。
 駐在所一家の朝食が終わると、いよいよ伊川への出発である。主任を中心にしてその後ろに奥さんと子供四人、それに私を加えて計七名の日本人は一杯の荷物を背にしながら、八月の暑い太陽にじりじり照らされ、汗を拭き拭き落ちてゆく。哀れなる日本人である。
 前方に棒を持った朝鮮人が立っているのを見ると、「あれは誰かな。私達を殴りに待っているのではないかな」と、戦々恐々の有様である。後から来る人を見ると、私達を追い掛けているのではないかと、主任は前を見、後を見ておどおどして落着かない。奥さんは背に重い子を背負っているのでなかなか思うように足が運べない。その上まだ三人の子供の手を引いているのであるから、気ばかり焦るが足はなかなかはかどらない。
 暫く歩いていると面の有志の娘が私を追ってきて、
「先生、もうお行きですか。折角仲良くしていただいたのに」
 と涙を落しながら残念がっている。
「こうなれば仕方がありません。まあどうなってもあなたもお身体を大切にして元気でいて下さいね」
 と私も思わず涙が出る。お互いに別れの涙にくれながら、いつまでも手を振って別れていった。
「やっと逃げおおせる事ができたな」
 七人の者はいよいよ自分達の住んだ西面を離れる事ができた。ほっと胸をなでおろしていると、いきなり後ろからかけ足で走ってくる朝鮮人がある。何事かと思っていると、「主任さん、早く逃げて下さい。後から追いかけてくる人がある。早く早く」という。
 主任は驚いて背中の荷物を奥さんに渡すと、命からがら駈け出す。私も走ろうとするのであるが、背中に思いリュックを背負っているし、手にはトランクを下げているので走れない。仕方がないので私は覚悟をきめて、奥さんや子供達と一緒に歩き出す。しかし気ばかり焦って生きた心地はしなかった。せめて妻子を一目見るまでは死ねないと決めている私は、妻子への未練で一杯であった。 
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秋の『野草酵素飲料』を仕込みました。 『引揚げ記』 (5)

2017年10月11日 06時20分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 酒米・山田錦の稲刈り真っ最中です。いまは晴天ですが、2、3日後は雨になりそうです。急がなければなりません。きのう一日でうちの畑のまわりは稲刈りがほとんど終わりました。ハイ・ペースで秋の農作業がすすんでいます。
 黒豆も「枝豆として食べ頃」に急になってきました。ここ一週間ほどで「黒豆狩り」に来てもらったり、送ったりしなければなりません。その前に「秋の野草酵素飲料」を仕込んでしまおう、と伽耶院の護摩供養のあと思い立って買い物に行きました。秋は野草というより果物中心になりますから、「道の駅」で仕入れていましたが、旧サティーと農協(ぶどう)で間に合いました。
 きのうは朝からまず「野草の植物採集」です。ギシギシやスギナ、畑ではサツマイモや豆類、菜っ葉類を採集して、ウッドデッキで仕込みました。その写真です。

 砂糖と〈果物/野草/葉っぱ類/穀類/栗/豆類〉などを一キログラムずつ十回交互に重ねていきます。午前中で仕込めました。毎朝夕にかき混ぜて、濾して、一週間で飲めるようになります。
 午後は畑で黒豆の枝豆を収穫しました。サツマイモのツル燃やしも。たしか宮本武蔵のお友だちだったか恋敵だったかの子孫とかかわりがあったかなかったか、又八さんがひょっこり畑に訪ねてこられ、枝豆を持ち帰ってもらいました。彼のホームページを見ると、見事な茶室を作っておられ、いつか見に行きたいと思っています。(膝は痛いけど)


  父の『引揚げ記』   昭和二〇年八月一五日 朝鮮の山奥で    (5)

 しかし妻子に未練ができると、どうしても生きねばならないと思う。せめて一目でもいいから妻子にあってから死にたいという気持が、むくむくと持ち上がってきた。
 独立の示威運動は、たけり立って大きく怒鳴ったり静かになって話合ったり、その間にも大きな鐘の音が続いている。
 そんな様子をぽつねんと眺めていると、部下の職員の一人が一本の煙草を差出してくれた。気がつくと朝から一服の煙草も吸っていなかったので、この一本の煙草を腹の底一杯に吸い込んだ。
 夜が更けると鐘の音はますますはげしくなった。その上変なデマまで流れ出した。
 面長が示威運動の暴力によってひどくやられたというのである。どうして朝鮮人が朝鮮人をこらしめるのか。それはこうである。即ち、戦時中日本に加担した面長だったというわけで、それをうらみに思っている人々が面長の家を襲って、家の前に置いてある漬物の壺をこわし、壁を破り、暴力で面長を取り押さえたというのである。
 真偽をたしかめようとして出掛けてみると、多くの人々が集って面長の家の前で鐘をたたき、喜び合っている。面長の家族の人々はこれ等の暴力をなだめようとするが、暴力をふるっている人々は相手にもしない。面長は多くの人の前に座らされて、唯じっと下を見詰めていた。駐在所を訪ねてみると、主任は家中荷物でごったがえした中で、ろうそくやランプに火をともし、汗だくになって荷物をまとめている。周囲には遠巻きにして朝鮮人達の声が聞こえ、ただならぬ様子であった。全く周囲は朝鮮人の敵ばかりの有様である。主任は小さい声で私にささやいた。
「日本はどんな条件で戦を終ったのだろうか」
「おそらく現段階では完全な負けにはちがいない」
「日本に帰って軍政でもしかれたら、いさぎよく死ぬるばかりだ」
「それでも一度は日本の土地を踏みたいなあ」
「警察の方では、団体にして警察官の家族全部を引揚げさせるように計画されている」
 この話を聞かされ、私はがっかりした。今日の日まで警察は私達を守り、私達を保護してくれるものと思っていたのに、その警察がまず自分達のことしか考えなくなった。一般の人々はどうなるのだ。私達は全く頼りになるものを失ってしまったのである。この上は自分自身に頼るほか仕方があるまい。朝鮮は敵、警察も自己主義になっているのであるから、頼りになるのは自分だけである。
 駐在所の主任は、
「今夜は私の家で泊っていかないか」
「いや、私にもいろいろ準備があるから」
 なぜ主任が私に泊ってゆくように云ったか後でわかったのだが、朝鮮の人々は今まで警察にいじめられていたので、団体で襲ってくるという心配があったからである。その時朝鮮の人々をなだめて止めてほしい、という意味があったらしい。
 日頃は大口をきいて、大きな事を云っている主任にも似合わず、案外弱いところがあるのだなあと思いつゝ、駐在所を辞して帰る。
 道路での鐘の音は相変らず鳴りひびき、今にも何かが起こりそうな様子である。その騒々しい鐘の音を一晩中聞きながら、まんじりとも出来ず夜を明かす。
 明くれば終戦第三日目の十七日。今日もからりと晴れ上がった暑い夏の日射しであった。私はリュックサックに出来るだけたくさんの荷物を背負って学校に行く。
 昨日までの生徒たちとちがって、遠巻きにじっと見ている。挨拶もしないで唯敵兵を見詰める目である。職員は勿論敵意に満ち満ちている。
 私はそれでも御真影としてあがめてきた日本の代表と勅語謄本(教員勅語)だけは大切に抱えて、学校を離れる。昨夜一緒に引揚げようと約束していたので駐在所に行ってみると、主任も家族もも抜けの殻で、家の中は朝鮮の人々が土足で入り込んでごった返している。
 残っている荷物を蹴散らす者、家の周りをぐるぐる廻って、何か物色する者、何かいいものはないかと鵜の目鷹の目である。
 私は約束を無にされたことに腹を立てながら駐在所を離れる。     (つづく)   
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父の『引揚げ記』  (4)

2017年10月09日 01時24分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 
「今年は絶対に伽耶院の『採燈大護摩供』を見に行こう」と夏になる前から決めていました。決めないと行けないからです。体育の日を忘れてしまったり「ま、来年でもいいか」と思ったりで何年も過ぎてしまいました。8年前だったか一度見たことがありますが、パワーをもらえます。11時30分から始まりますが、駐車場のこともあり10時過ぎに出掛けました。10時30分には石垣の上に座る場所を確保して、待ちます。紅葉の樹の日陰で暑くなく、風もなく、絶好の護摩日和です。 
 
 関西の山伏が大集合。ほら貝が鳴り、弓矢や斧の儀式がすすみ、気分が盛り上がります。護摩焚きの火は高く燃えあがります。

 宝剣加持もしていただき、パワーをもらって帰ってきました。


     昭和20年8月15日  朝鮮の山奥で    (4)   ※ 父の手記をそのまま載せます。


 奥の方に入って見ると、(駐在所の)主任は汗だくで荷造りの真っ最中である。そして「朝鮮が独立したんですって。ぐずぐずしていてはだめです。なるべく早く伊川に引揚げるようにと通知があったんです」という。
 私はこれを聞かされて、頭をぐゎんと叩かれた感じがした。同じ日本人でありながらお互いに助け合いがなくてはならない同胞であるのに、なぜこれ程大切な事をすぐに私に知らせてくれなかったのか。同じ同胞に裏切られた気がして悲しくなった。
「早くしないと独立運動でどんなことが起きるかわからない。早くした方がいいよ」
「どんな事が起こるんですか」
「隣村では独立旗をおし立てて示威運動をして、だんだんこちらに迫ってくるらしいんだって」
 私はどうしたらいいのか全く見当がつかない。どこまでが真実でどこまでがデマか見分けがつかない。でも唯考えていても仕方がないので、一先(ひとまず)伊川へ引揚げる準備にかかる。
 学校まで帰ってみると、今まで教えていた生徒達が、じろじろと遠くの方で変な目付きで私を見つめる。「どうもおかしいな」と思って職員室に入ってみると、多くの職員と生徒達が寄り集って、朝鮮独立の旗をつくっている。黒板には朝鮮独立の文字が大きく書かれている。
「伊川まで引揚げることにした」と私は職員達に告げると家路についた。
 道路では独立旗をけ立てて鐘をじゃんじゃん鳴らし、大声をあげて示威をしている。私にとっては周囲を敵に囲まれた感じであった。頭をまともに上げて歩けない有様である。
 やっと家に辿りつくと、さてどんな荷物を持って引揚げようかと考える。これは入用なものである。これは不用なものであるの区別がつきにくい。もう再びここに帰ってくる事はあるまい。随分親しんできたいろいろな道具を手放したくない。
 しかしそうたくさんは持って歩けない。まあいいや。人間切羽詰ってみると、案外何も不要になってくる。命だけあれば後はどうにかなるだろうという気になる。それでも入るだけの品物をリュックの中に詰めていると、遠くでジャンジャン朝鮮独立の示威運動の鐘が鳴っていたのが、だんだんこちらの方に近寄ってくる。とうとう私の家のすぐ前まで迫ってきた。
 これ等の集団がいきなり私の室の障子を開けると、何か朝鮮語で叫んだり怒鳴ったりする。外を見ると今日まで私の部下だった職員の顔も見える。大衆が何を云っているのかわからないのでとぼけた顔をしていると、かつての私の部下の職員達が、その高ぶる叫びをなだめているような様子である。
 おぼろげながらうろ覚えの朝鮮語から彼等の叫んでいる事を判断してみると、「日本はもう敗けたんだから、ここにいる日本人を叩き殺してしまおう」と云っているようである。私もいざという時は自決するつもりでいたので、彼等の言葉を割に平静に聞く事ができた。しかし、今その時がきたと思うと、突然に私の頭にとびこんできたものは、故郷に残して来た妻子の事である。
 今日の日まで、日本が勝つためには家もない私もない、唯日本の為に、と滅私奉公を身を以って実践してきたのに、今自決の時に妻子を考えると、何となさけない人間であるのかと我ながら恥しい気持で一杯であった。     (つづく)
 
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父の『引揚げ記』   (3)

2017年10月09日 01時18分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 萌ちゃん一家が三木のブドウをゲットしようとやってきたので、みんなで妙子さんを訪ねました。

 笑顔も見られたのですが写真とタイミングが合いませんでした。でも気持ちは伝わりました。その後、元サティー前の、
出汁のおいしいうどん屋さん・淡家へ。メニューいろいろで迷いますが、「ぶっかけ」の〈冷や〉にしました。出汁がうまかった。


 父は9月中頃に鳥取県の母の実家に引き揚げてきました。リュックサックには古い毛布が入っていました。ぼくはまだ7歳でしたから、大人の話には加われず、どんな様子だったか聞いていません。敗戦後の暮らしは田舎でも大変でしたから、「引き揚げ」の様子をくわしく聞いたこともありません。いま父の文を読みながら当時の状況を想像します。

   
         昭和20年8月15日  朝鮮の山奥で   (3)
 ※ 父の書いた文のまま載せます。

 変だ。まさかその人が私をだましているとも思われない。デマではあるまいと思うのだが、どうしても戦争が終わったとは信じられなかった。
 下宿に帰っても落着かない。不安で一杯であるがどうにも仕方がない。話相手もなく相談する人もない。自分の周囲は朝鮮人ばかりであるからである。
 電気のない真っ暗闇の下宿に入って、一人になってみるといろいろな思いが乱れとぶ。
 生きている目的がなくなった。今まで敗けるという事は考えたことがなかった。これからの日本はどうなるのだ。いろいろな苦しい生活が私達を襲ってくるであろう。
 これが真実か。今日の日まで勝つと信じ、勝つために全精力を注ぎ込んできた自分であるのに、全く夢の出来事である。
 でももう一度その事をたしかめようと思って、同じ日本人である駐在所主任のところに行こうと出掛けていったが、その途中で面長に会った。
「面長さん、戦は終ったってほんとうですか」
 と問い掛ける。
「えゝ、どうもそうらしいですなあ」
「今日伊川郡(郡の中心都市ですべての司令がここから発せられる)から手紙が来て、戦は終ったから、戦争の事は何もしなくてよいという事でしたなあ」
 がっくり。唯ぼんやり重い頭をふりふり、再び下宿に帰る。悩みは尽きないが、体は昼間の労働にすっかり疲れて、いつの間にか眠ってしまった。
 終戦第二日目、8月16日も暑い太陽がじりじりと照りつけていた。私は何もなかったような顔をして学校に出勤する。掲示板の『必勝』の字が目にしみるように痛い。恥かしくなり小使いに命じてその掲示板を下ろさせ、朝会では全生徒に向かって、
「残念ではあるが、日本は負けた。これからすぐに楽しい日本になるとは考えられない。いや、苦しいことはこれから始まるかも知れない。どんな苦しい事でもそれをじっと我慢して、それを切り抜けるにちがいない。皆も心をゆるめないで、しっかり覚悟をきめてほしい」
 と訓示して、平常通りの授業を続ける。
 昼近くなって伊川に出張していた職員の一人が学校に帰って来て、変な顔をしてじっと私を見詰めていう。
「校長先生は何も通知がなかったのですか」
「何の通知?」
「伊川では大騒動ですよ。なんでも朝鮮が独立したんですって」
「まさか」
 そんな事は信じられない。やがて小使いが私のところに来て、「面長さんと駐在さんが何か話してた」とささやく。私も話のわかる人と話してみたくなり、すぐ近くにある駐在所を訪ねてみた。面長はいなかったが、二、三人の人が一心に荷造りしている。
「何をしているのか」と尋ねると「日本人は早く伊川に引揚げて下さい。さもないと危険です」という。    (つづく)




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父の『引揚げ記』 (2)

2017年10月08日 03時02分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 父の『引揚げ記』をきのうから載せています。
 日本があの戦争に負けたとき「ものごころついていた」多くの日本人は「生涯忘れられない自分の物語」を体験したでしょう。「生涯忘れられない凄惨な場面」を目撃したでしょう。そしてだれにも語ることなく亡くなった人も多いでしょう。
 父は小学校の教員として平凡な一生を送りましたが、あの敗戦後一ヵ月間に遭遇した出来事だけは、伝えたかったようです。ぼくは高校生の頃に父の本棚にあった彼の手記を一度読みました。わら半紙(敗戦後あった粗末な紙)数十枚に書いてある手記でした。
 その後その手記は引っ越しにまぎれて紛失したようですが、68歳で神戸に移り住んでから再び書いた手記を載せています。


       昭和20年8月15日 朝鮮の山奥で  (2)  ※ 漢字/用字/仮名遣いは原文のまま載せます。

 ほとほともてあました面長は、泣いたり反抗したりする男達を残して家路につく。
「アイゴー、アイゴー」 
 彼等は面長の机の上で大声で泣き伏す。全く面(村のこと)に住んでいる百姓達は、戦がはげしくなるにつれ、食料は不足し、米はいくら作っても殆ど供出させられ、その日の食べ物にも困る程せっぱつまっていた。
 百姓達は食料がなくなると、山や野原に出て、食べられそうな草や木の実をとってきてはそれで飢えをしのいだ。また川に入っては魚をとり、それを汁と一緒に煮てその日の空腹をしのいでいたのであった。
 そんな物を食べているので栄養不足でだんだん衰えて、自由に体を動かして働く事ができない程弱り果てていた。
 そんな暮しの百姓達を尻目に、軍の上の方からは司令が次々と下ろされてきた。松根油をとる松を切って来いとか、山の木の実を集めて油を絞れとか、馬の飼料になる葛葉を採集してそれを乾燥させろとか、次々に仕事がふりかかって来た。
 若(も)しこれ等の仕事の割当を果たさない者があると、「日本が戦争に負けてもいいのか」と警察官に怒鳴られ、その上棒でこっぴどく叩かれるのである。このように一般に面の人々の生活は、もうこれ以上下がれないというぎりぎりの生活に迫られていた。
 それでも日本人である駐在所の主任と小学校長の私だけは、三日遅れで郵送される新聞のニュースを信じ切っているので、日本は勝つのだ、勝たねばならないのだ、と張り切って朝鮮人を説き伏せ、叩きつけて、朝鮮人の尻をひっぱたいていた。
 ソ聯兵(ソ連兵)が満州から朝鮮に攻め入ってきたという噂が広まると、私は声高らかに朝会で全生徒に叫び続けた。
「いよいよ私達もお国の為に尽くす事ができる。ソ聯兵が北からだんだんこちらに攻めて来ているようだ。若し私達の面まで入ってきた時は、竹槍で一人でも二人でも敵兵を倒して、いさぎよく我等も果ててしまおうではないか」
 子供達がどんな心で聞いていたか知らなかった。唯私は自分の持つ大和魂を子供達の心の中にたたき込んでやりたい一念であった。
 終戦の日8月15日も学校は休業して、学校に割り当てられた松根油を確保する為に、朝から全職員が各に出向いて、子供達をはげまして廻った。
 暑い暑い夏の一日を朝から汗を拭き拭き、私も陣頭指揮で督励して廻った。児童たちは小さい釜に松の根を入れて、それに火を燃やしつけて、わずかばかりの油を絞りとっていた。この油が何に使われるのか、どうしてこんな油を絞らねばならないかは知っていなかった。
 日暮れて疲れ切って家路を辿っていると、面長の家の前で10名ばかりの人々が集ってがやがや話している。何事かなと近づいてみると、
「校長先生、戦争は終わったそうですなあ」
 とある人が云う。
「えゝ、どうてそれ」
 私はわけのわからない言葉を発して、そんなことがあるものかと信じられない。
「今日ラヂオ放送があって、戦争は終わったから松根油はとらなくてもよい、という通知が入ったそうです」
「本当ですか。一体どんなふうに戦争が終わったのですか」
「さあ、そのへんははっきりわからないが、そういう話がラヂオで放送されたそうです」     (つづく)






  
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『とりあえず80歳へ』から『古希からの田舎暮らし』に戻ります。

2017年10月07日 08時54分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 いつまでも「古希からの田舎暮らし」では「陳腐だ!」と思い、田舎暮らし9年目になる78歳のときにブログの名前を変えました。とりあえず80歳までは生きるつもりで。ところが、いざ80歳になってみると「昨日のつづきに今日がある」ように、なんということはありません。そこでやっぱり「古希からの田舎暮らし」に戻るlことにしました。『とりあえず80歳へ』は78歳と79歳の2年間だけにします。
 神戸から三木へ引っ越したときは、「いままでの人生を『ご破算で願いましては』にして、新天地の土地で、田舎暮らしで余生をおくるつもりでした」。自分の学生時代のアルバムとか中学校の先生をしていた時代の文集やアルバムとか自作の教材を全部処分して、家族の記録だけ残し、隠遁生活をする気分でした。
 しかし10年たってみると ドッコイ! ぼくも長寿時代の人の子。結構余生が長くなりそうです。それに人との〈つながり〉や〈思い〉は、そう簡単に切ったり貼ったりできるものではありません。年賀状は数十枚やりとりしますし、訪ねてくる知人友人もあり、「なにかでつながっていたい」自分の気持ちが結構つよいのにもおどろきます。いまでは〈ブログ書き〉が大事な日課になっています。
 ブログ書きがどこまでつづくかわかりません。
 これから何年つづいてもいいように、『古希からの田舎暮らし』に戻ります。これからもよろしくお願いします。

 
 父は小学校の教員でした。戦時中は朝鮮(外地)に渡って小学校に勤めました。ぼくら家族も朝鮮で暮らしていました。昭和18年に母が病気になり、治療のため3人の子どもを連れて日本(内地)の実家に一時帰国しました。病気は治っても、戦況がわるく、民間人を朝鮮に渡す船はありませんでした。母と3人の子どもは実家(鳥取県の田舎)で、敗戦になりました。
 日本の敗戦後、父は38度線の北から京城(いまのソウル)へと逃げまどい、命からがら日本に引揚げてきました。その手記『引揚げ記』をしばらく連載します。父にとっては「生涯最大の思い出」です。お付き合いをお願いします。
 ※ 明治42年生れの父は旧字体も書いていますが、そのままアップします。


      昭和20年 8月 15日  朝鮮の山奥で    (1)

 朝鮮のちょうど中央部、鉄の三角地帯の一つ、鉄原から40キロメートル(10里)ばかり山奥に入ったところに、西面(「面」は日本でいう「村」に当る)という村があった。その西面は全くの山奥で、一日に3回鉄原から通うバスがあり、それが他の村と連絡する唯一の交通機関であった。電気は勿論なく、小さな燈油の光りを夕方ほんのわずかの間ともすだけの暗い暮しであった。
 唯文化的施設と云えば、面事務所(村役場)と駐在所(警察官の家)と小学校で、これらに務める人々がいろいろ協議して、面の運営が行われていた。それらの文化的施設の長を、『面の三長官』といって、面の中では一番えらい人々であった。その面に居住する日本人といえば、駐在所の警察官と小学校の校長である私だけであって、面長(村長)は朝鮮人である。
 大東亜戦争もますますはげしくなり、食糧がひっぱくしてきたある日の面事務所の出来事を記してみる。

 面事務所に、突然やせ細った2、3人の男が入って来た。
「面長さん、米をくれねえか。食べ物をおくれ。おれあ死ぬる」
 と床に座りこむ。
「お前等が食べ物にこまっているのはよくわかる。だがな。面には米がないのだから、どうにも仕方がない。今日は帰ってくれ」
 面長は大きな目を見張って断る。
「面長、俺達は死んでもいいというのか」
 男は怒鳴る。いや死んでは困る。だが、ない米はあげられないではないか」 
 彼等は悲しい声を上げて泣き出してしまった。
「あゝ、困るなあ」
 面長は顔をしかめて吐息をつく。
「俺達は家に帰ってもどうせ食べ物がないのだから、同じ死ぬなら面長の机の上で死ぬんだ」
 彼等は或は泣き、或は反抗し、面長の机の上に上がってあぐらをかく。
 ほとほともてあました面長は、泣いたり反抗したりする男達を残して家路につく。    (つづく)





 


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