この社がアラハバキ神社とした理由が江戸時代の紀行家であり民俗学者でもあるようです。
青森県内をはじめ秋田のあらゆるところを見聞してあるき、挿絵とともに文が添えてある。
秋田には資料館もあり、景色や道具など色々なものを絵に描いています。
他にも岩手では盛岡・平泉・鹽竈神社・多賀城・東北だけでなく中山道・善光寺・諏訪神社・等々・・・
本当に隅々まで訪問しています。
その人物は「菅江真澄」です。
「菅江真澄」は、宝暦4年(1754)三河の国(愛知県)に生まれ、本名は、白井英二と名乗っていました。
30歳に国を出て北海道から東北を18年間巡り その後享和元年(1801)に48歳で再び、旅に出て秋田6群を28年に渡り巡歴した。 文政12年(1829)享年76歳で死去しています。
青森市松森の部分
「八月朔日のあした 霍公鳥きかばやと塘川を橋より渡りて、茶屋町をめてに松森のやかたにいと近う、皂挟子(サイカシ)のとしふる大木の、ふせるがごとき杜のうちに祠あり。むかし源九郎義経のはぎまきをかけて、神とは斎ひ奉れりといふ。こは松前の西なる磯辺に小山権現とて、小山判官のかたはゞきを、かく、神といはひまつるのたぐひにひとし。この松杜のほとりなるみやどころに、今は松尾の神をうつし奉れど、なべて麁脛縢明神と申といふ。あらはゞきの神は血麁の浦の神籬の摂社、あるは、吾ふる郷の刀鹿の峰大汝の命の神社の側にも、あらはゞきの神の祠あり、おなじ神にや」(『すみかの山』)
あらはばきの神は、血鹿の浦(千賀の浦、宮城県塩釜の浦)の神社の摂社、あるいは、わが故郷(三河)の刀鹿の峰大汝の命の神社(砥鹿神社、愛知県宝飯郡一宮町)の側にも、あらはばきの神の祠があったが、おなじ神であろうか。幣をとると、まだ散り残っている桜の梢が遠くに見えた。馬草を刈っていた男が近くへ寄ってきて、「こんな小さな堂ですが、判官殿の脛巻をおさめて、あらはばきの杜とも、またしりべつの林とも申して、尊い神です」と語る声といっしょに、ほととぎすがさかんに鳴いていた。
雑草がびっしりあり、小さな石碑は見えなくなっていた。又は撤去されたのかもしれない???
松尾神社の由来とは言えないほどの内容。
「東」アカダモ
「西」エゾエノキ
まるで、お化けのような、怪獣のような恐ろしい形に・・・・
ちょっと残念な結果でしたが、これも歴史の一部ですからね。
後は、地元の方の崇拝を期待したいと思います。
「あらはばき」はこちらにまとめています。
「アラハバキと謎の古代史」
青森県内をはじめ秋田のあらゆるところを見聞してあるき、挿絵とともに文が添えてある。
秋田には資料館もあり、景色や道具など色々なものを絵に描いています。
他にも岩手では盛岡・平泉・鹽竈神社・多賀城・東北だけでなく中山道・善光寺・諏訪神社・等々・・・
本当に隅々まで訪問しています。
その人物は「菅江真澄」です。
「菅江真澄」は、宝暦4年(1754)三河の国(愛知県)に生まれ、本名は、白井英二と名乗っていました。
30歳に国を出て北海道から東北を18年間巡り その後享和元年(1801)に48歳で再び、旅に出て秋田6群を28年に渡り巡歴した。 文政12年(1829)享年76歳で死去しています。
青森市松森の部分
「八月朔日のあした 霍公鳥きかばやと塘川を橋より渡りて、茶屋町をめてに松森のやかたにいと近う、皂挟子(サイカシ)のとしふる大木の、ふせるがごとき杜のうちに祠あり。むかし源九郎義経のはぎまきをかけて、神とは斎ひ奉れりといふ。こは松前の西なる磯辺に小山権現とて、小山判官のかたはゞきを、かく、神といはひまつるのたぐひにひとし。この松杜のほとりなるみやどころに、今は松尾の神をうつし奉れど、なべて麁脛縢明神と申といふ。あらはゞきの神は血麁の浦の神籬の摂社、あるは、吾ふる郷の刀鹿の峰大汝の命の神社の側にも、あらはゞきの神の祠あり、おなじ神にや」(『すみかの山』)
あらはばきの神は、血鹿の浦(千賀の浦、宮城県塩釜の浦)の神社の摂社、あるいは、わが故郷(三河)の刀鹿の峰大汝の命の神社(砥鹿神社、愛知県宝飯郡一宮町)の側にも、あらはばきの神の祠があったが、おなじ神であろうか。幣をとると、まだ散り残っている桜の梢が遠くに見えた。馬草を刈っていた男が近くへ寄ってきて、「こんな小さな堂ですが、判官殿の脛巻をおさめて、あらはばきの杜とも、またしりべつの林とも申して、尊い神です」と語る声といっしょに、ほととぎすがさかんに鳴いていた。
雑草がびっしりあり、小さな石碑は見えなくなっていた。又は撤去されたのかもしれない???
松尾神社の由来とは言えないほどの内容。
「東」アカダモ
「西」エゾエノキ
まるで、お化けのような、怪獣のような恐ろしい形に・・・・
ちょっと残念な結果でしたが、これも歴史の一部ですからね。
後は、地元の方の崇拝を期待したいと思います。
「あらはばき」はこちらにまとめています。
「アラハバキと謎の古代史」
私は最近、縄文時代の神社は日本全国アラハバキだったのではないかと思えてきました。現在のような「神社名」「祭神」などは無く、山・川・沼・海など生活基盤を支えてくれているものに感謝し祀っていた「神の総称」がアラハバキだったと思います。記紀完成後、中央政権が宗教を利用して統治を行う手法を取った際に、偶像崇拝を禁止し祭神を氏族の祖先や英雄など人格神に上書きしました。関東や東北は地理的にその影響が薄く、アラハバキが残れたと思います。
「白山」は「歯苦散」に通じるから歯の神様
「スサノオ」は結婚したから縁結びの神様
「天神様」は頭が良かったから受験の神様
「木花開耶姫」はニニギの子供を産んだから子育ての神様
など祭神にご利益を求めるのも人間の心情です。祭神が知ったらビックリするでしょうが。
アラハバキも「製鉄の神」や「足腰の神」と言われていますが、語感から後付けされた可能性もあるとも考えています。
自分のHPにもそのように書いてます。
稲荷=あらはばき、ではなく、主祭神が変わったとき稲荷に変えた社もあったということでしょう。
稲荷は江戸時代に急速に発展します。
今でいう通販のように、稲荷を作りたいと要望書を送るだけで許可されました。
ですから、日本のどこにでも普及したのでしょう。
稲荷ほぼどこの神社でも西側に祀られています。
よく民家で使われた小さい稲荷の祠が捨てれれているかのようにありますよね。
勿論、ないところもありますが。
多くの伝承から大歳神は夫婦の神と言えます。あえてアラハバキ神と固定するなら天知加流美豆姫となるのではないでしょうか。
友人の神社から天照大神は、天孫族が自分達の神としてアラハバキ神を天岩戸で生まれ変わらせ誕生させた神の様に思えます。
最近一覧にしようかと思いますが、一冊や二冊では全部書いていないし、星の数ほどあるのではと思ってしまいます。
それも、同一神や呼び名、書き方が違うものまで・・・
大国主だけでも小さなメモ帳の1ページが埋まりましたよ。
ひーさん寒くなりましたから体調に気をつけて下さい。
応援しております。
理数系の人間からは、答えが出ないのはつまらないといわれます。 数学は必ず一つの答えが出ますからね。
歴史や古代史は、いろいろな角度から推察しそこに考古学が絡んで答えがぼんやりと出てきます。
自分も書いていてこれが絶対だとは思っていません。
つまり、複数の答えがあります。ほぼ想像だったりします。
また活字の力も強く私はじめ興味のある人には面白い題材でもあるでしょう。
こんなことがあったのか? このような可能性もある・・・と古代を創造するから楽しいのでしょうね。
歴史の答えは時代で変わって行きます。有名なのは仁徳天皇陵は現在「大仙陵古墳」だったり、聖徳太子のこと、また鎌倉幕府は「いいくにつくろう」1192では無くなりました。 6つの説がありますが「いいはこつくろう」1185・・・・とか。
私たちの先祖はどこから来たのか? これが私のテーマです。
ボケ防止にもなるでしょうから、もう少し頑張りたいと思います。
塩竈在住で歴史と自分の先祖に興味あり色々妄想しております。
佐浦町に山神神社がなぜ多いとか、塩竈様の本当は?等
自分なりに調べて楽しんでいます。これからも宜しくお願いします。コメント下手ですみません。
以前から自分も鹽竈神社を不思議に感じ、調べました。
下記のアドレスのの下の方に「しおがまさまの不思議」というタイトルでまとめています。 ブログ記事にもありますので読んだことがあるかもしれませんが、式内社ではないのに国からの援助が一流神社なみです。
http://sanpomichi114.jp/komainu.html
身を清めるには、水が関係し、水神にかかわるのは蛇や龍ということになりますね。
神の世界は広すぎます。 しかし同神として多くの神が名前を沢山持っています。
何千年もの長い歴史を数十年では解明も記憶も難しいですが楽しみながら歴史に触れることが元気でいるためのこつなのかも知れません。