何故伊達政宗が独眼龍と呼ばれたのでしょう。
当然誰しも、片目だったからでしょ!? と思うことでしょう。
勿論そうなのですが、独眼龍の文字を宛てた理由がありそうです。
久しく政宗公の話をしていなかったので、そろそろ書きたい虫が出てきたようです。
さて、政宗が幼少の頃、疱瘡を患い右目を失った話は、有名な話ですね。
幼名、梵天丸の政宗は、5歳の頃疱瘡(天然痘)を患い右目を失明します。
これが原因で梵天丸は今で言う引きこもりと言うか、強い劣等感を持ち人前に出るのを苦手としたようです。
そんな姿を見た母義姫は弟の竺丸(小次郎)を溺愛するようになるのです。
しかし、父輝宗は政宗を家督にすることには一つの揺るぎも無かったようです。
学僧として虎哉宗乙(こさいそういつ)を近習として片倉小十郎影綱を付き添わせました。
この知性と教養は、後に他の武将を驚かせたようです。
特に詩会などでは、歌人を上回る出きだったそうです。
ちょっと脱線しましたが、当時は独眼龍と呼ばれた記録は無いそうです。
『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』に、死後自分の木像などを作る時は必ず両眼を付けて置くべし! 親から授かった健全な身体をこのようにしてしまったのは不幸このうえないことである。だから両眼を付けるようにと言い残しています。
関連記事「伊達政宗騎馬像」
独眼龍と呼ばれ、同じく片目で武勇に優れた中国人がいました。
それは、五代後唐(こうとう)の始祖李克用(り こくよう:856~908)です。
彼の軍隊は黒い衣を着用していたところから鴉軍(あぐん)と呼ばれ恐れられていたようです。
この李克用と共通する点が多いことから政宗は独眼龍と呼ばれるようになったと思われます。
こんな長詩があります。
文政六年(1823) 頼山陽(らいさんよう)の漢詩で「多賀城瓦研歌」
この中に「河北終ニ帰ス独眼龍」と言う一句があると言う。
つまりこの文政六年には、独眼龍と呼ばれていたことになりますね。
伊達政宗を詠んだ漢詩に次のようなものがあります。(文政十年)
髀肉生時白髪多
残軀不レ楽亦如何
老龍独眼窺二唐域一
唱出升第一歌
こんな詩が政宗=独眼龍を称することになったのでは、ないでしょうか?
小学2年生のひーさん・・・ 蝶ネクタイだよwww 於:青葉城
伊達者の心得
先日TVで仙台伊達家十八代当主 伊達泰宗さんが語っていました。
「いつも手を綺麗にしていなさい、もし手が汚れていたら十分な勤めが出来ないであろう。」
”伊達”というのは表を着飾ることではない、見えない所でこそ心配りをし、見えない所でこそ努力を重ねていく、その伊達なる心が結果として表に光として表れる・・・・・・これが伊達者の心得である。
関連記事:伊達者表と裏の哲学
ひとめぼれ 31×2=62
当然誰しも、片目だったからでしょ!? と思うことでしょう。
勿論そうなのですが、独眼龍の文字を宛てた理由がありそうです。
久しく政宗公の話をしていなかったので、そろそろ書きたい虫が出てきたようです。
さて、政宗が幼少の頃、疱瘡を患い右目を失った話は、有名な話ですね。
幼名、梵天丸の政宗は、5歳の頃疱瘡(天然痘)を患い右目を失明します。
これが原因で梵天丸は今で言う引きこもりと言うか、強い劣等感を持ち人前に出るのを苦手としたようです。
そんな姿を見た母義姫は弟の竺丸(小次郎)を溺愛するようになるのです。
しかし、父輝宗は政宗を家督にすることには一つの揺るぎも無かったようです。
学僧として虎哉宗乙(こさいそういつ)を近習として片倉小十郎影綱を付き添わせました。
この知性と教養は、後に他の武将を驚かせたようです。
特に詩会などでは、歌人を上回る出きだったそうです。
ちょっと脱線しましたが、当時は独眼龍と呼ばれた記録は無いそうです。
『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』に、死後自分の木像などを作る時は必ず両眼を付けて置くべし! 親から授かった健全な身体をこのようにしてしまったのは不幸このうえないことである。だから両眼を付けるようにと言い残しています。
関連記事「伊達政宗騎馬像」
独眼龍と呼ばれ、同じく片目で武勇に優れた中国人がいました。
それは、五代後唐(こうとう)の始祖李克用(り こくよう:856~908)です。
彼の軍隊は黒い衣を着用していたところから鴉軍(あぐん)と呼ばれ恐れられていたようです。
この李克用と共通する点が多いことから政宗は独眼龍と呼ばれるようになったと思われます。
こんな長詩があります。
文政六年(1823) 頼山陽(らいさんよう)の漢詩で「多賀城瓦研歌」
この中に「河北終ニ帰ス独眼龍」と言う一句があると言う。
つまりこの文政六年には、独眼龍と呼ばれていたことになりますね。
伊達政宗を詠んだ漢詩に次のようなものがあります。(文政十年)
髀肉生時白髪多
残軀不レ楽亦如何
老龍独眼窺二唐域一
唱出升第一歌
こんな詩が政宗=独眼龍を称することになったのでは、ないでしょうか?
小学2年生のひーさん・・・ 蝶ネクタイだよwww 於:青葉城
伊達者の心得
先日TVで仙台伊達家十八代当主 伊達泰宗さんが語っていました。
「いつも手を綺麗にしていなさい、もし手が汚れていたら十分な勤めが出来ないであろう。」
”伊達”というのは表を着飾ることではない、見えない所でこそ心配りをし、見えない所でこそ努力を重ねていく、その伊達なる心が結果として表に光として表れる・・・・・・これが伊達者の心得である。
関連記事:伊達者表と裏の哲学
ひとめぼれ 31×2=62
政宗の事を思ってました~。
片目だから?と。
それは違うのだと知り、また勉強になった!
ひーさんの小学2年生の頃の写真。
これは社会見学ですか?
遠足?
可愛い子供達がズラリですね。
ひーさんが一番可愛いかも?!
面倒な話なのに読んでいただいてありがとうございます。
昨日からほとんど寝てないので、今日は早めに寝ます。
ときどきあっけど、やんだよなぁ~
ところで、政宗「独眼竜」の由来・・・頼山陽が出てくるとは !
さすが勉強してるねぇ~ ♪(オラ知ゃねがったおんねぇ~)
今日はオイラ代休だったんで夕方近く町内の散策に、もちろん徒歩でね ♪ ^O^V
そしたら、あったよまた、石鳥居に三角の額が・・・
場所は吉田神社、奉納は大正3年、奉納者は何故か牡鹿郡竹ノ濱の人で、石工は井内(石巻)の人・・・
ほかにも境内には、狛ちゃん新旧2セット(旧:T3、新:S12)、皇紀二千六百年記念灯篭、
『文政6年』奉納の湯殿山の板碑・・・etc.etc
PS.そういえば、騎馬像の向いに第三帝国寄贈のエンタシスに鷲の像あったよなぁ?
高校サボって坂道登って、何度か記念撮影をぼんやり眺めていたことがあります。
あの頃からずーっと「何か」をサボり続けているような気がしています。
>第三帝国寄贈のエンタシスに鷲の像
ニュールンベルグの党大会ですな。
いよいよこっちにやって来た新型インフルエンザ。
満員の電車内の「疑心暗鬼」の雰囲気がたまらんです。
とはいえ頼山陽は『日本楽府』で日本史の名場面を幾つも詠んでいますから、政宗公を詠んだ作品があっても不思議はないですね。
そしてまた江戸時代のインテリであれば、後唐の李克用のことも当然知っていたはずです。
頼山陽が郷土の英雄をしに詠んでいた・・・
やっぱり嬉しくなってしまいます。
私にとって、伊達政宗といえば隻眼の英雄でした。
だからこそ、幼い頃は両目を点じた肖像を「ホントじゃない!!」と思っていたものです。
「死後に作る像には両目を点ずるように」との遺言のことを知ったのは、随分と時間が経ってからでした。
御自身が片目であること、やはり公も気にしていたのですね。
職場が八木山なもので、
夕方に会議がなくて天気がいい時は、時たま八木山橋→天守台→三の丸のコースを歩いて帰ることがあります。
政宗公の騎馬像も何度かカメラに収めましたが、ひーさんの写真とほぼ同じアングルでシルエットになっているヤツと後姿のヤツがお気に入りです。
夢中になって全部見たような気がします。^^
「いつも手を綺麗にしていなさい、もし手が汚れていたら十分な勤めが出来ないであろう。」
”伊達”というのは表を着飾ることではない、見えない所でこそ心配りをし、見えない所でこそ努力を重ねていく、その伊達なる心が結果として表に光として表れる・・・・・・これが伊達者の心得である。
なるほどー! だからダテじゃないというんでしょうか。確かに人の手(とか爪)が汚れていると凄く気になる。。手って大事ですよね。
小2のひーさん発見できませぬ!蝶ネクタイすら見つからない。^^;
これで2度目、あそこでは3度目のようです。
三角ありましたか、今度行って見ます。
今までの例から見ると、海沿いに多いね。
青葉城のやつですね! ロシアを睨めています。
サボっていても・・・www
今更ですが、何故クロンシュタットをニックネームに・・?
バルチック艦隊の母港の街?
頼山陽の漢詩は、本で知ったのですが、詳しくはわからないです。
庶民が政宗を独眼龍と言っていたかはわかりませんけどね。
像の後ろ姿ですか・・・なるほど今まで考えても見ませんでした。
私もワンショット撮って置きますかね。
たぶん下から2列目向かって右から4番目ですよ。