昨今、政宗がスペイン人であるとか?
面白い話しが巷で話されているようです。
残念ながら、その番組は見る事が出来ませんでした。
ですから、反論するにも何に反論すれば良いのかわからない次第です。
まぁ、政宗がスペインの血を引いているのなら、父輝宗か母最上義姫のどちらかが同じくスペイン人でないと行けませんね。
すると福島県や山形県の血筋もスペイン系が居るわけで、顔立ちや毛髪にも、まれに西洋系の特徴が出てきてもいいのでは無いでしょうか?
しかし、そんな話しは今までに聞いたことも、ありませんねぇ。
まぁ、それだけ政宗公が人気者である証拠だと思いますので自分も嬉しい限りです。
そこで噂になる要因が一つあります。
それは側室の中に異国人の女性が居たことです。
政宗公の人生の半分は、戦地か江戸屋敷での暮らしでしたから、長崎から南蛮人が江戸へ来ていることは確実です。
こんな話しが残っています。
フランシスコ会の神父ベアト・ルイス・ソテロは、今のスペイン・セビリア市の上流貴族階級出身の宣教師です。
慶長8年(1603)にメキシコ…マニラ経由で来日しました。
慶長15年の事です。
ソテロの教会堂は浅草にあり、そこへ一人の武士が訪ねてきたのです。
この武士は伊達家の勘定奉行でした。
以前、彼の妻が病気の時、教会堂付属病院の医師であるペトロ・デ・ブルギーリョス修道士に治療してもらったことがあったようです。(彼は茶道の清水道竿の祖父で江戸勘定奉行)
何故ここに彼が来たかというと、政宗公は側室の中でも異国人の女性(侍女とも)をもっとも愛していたとも言います。
その女性が病になり日本人の多くの医師達に診てもらったのですが一向に良くならず、往診を頼みに来たのでした。
ソテロの命令でブルギーリョス医師が江戸の仙台屋敷に行き、女性は全快したそうです。
政宗公は感謝のしるしに治療代に加え金・銀の延べ棒や絹地、衣装を贈りましたがソテロは受け取りませんでした。
それは、宣教師が治療するのは利益の為では無く、神の愛そして隣人の愛の為に治療するのです。と断ったのです。
政宗公に取って、贈り物の拒絶は初めてのことで驚き、公はソテロとその医師に会見を申し入れるのです。
二人は献上品としてパンを五十個、ローソク三十本、薬剤になるチョウジ(蕾を乾燥させる)三斤(1.8キロ)コショウ三斤を持って、仙台屋敷に参上したのです。
この時代にパンも凄いですね。
ソテロが日本語を話すことを知って、公は長時間語り合い、領内に置ける布教活動も許したそうです。
たまたま、この絵を見つけました。 政宗と常長とソテロの会見の様子です。
チョット寄り道が長くなりました。
政宗公の誕生秘話
伊達政宗公は、永禄十年(1567)8月3日辰の刻(午前8時)
羽州置賜郡長井荘米澤(現:山形県米沢市)の城内で生まれました。
父は伊達家十六世伊達輝宗22歳
母は山形城主、最上義光(もがみよしあき)の妹義姫20歳でした。
生まれた男の子は、右手をしっかりと握りしめ、7日が過ぎた時、手の平が開きました。
そこには、墨で書いたかのような「満海」と言う文字が現れています。
輝宗は、不審に思い城下領内に「満海」という者がおるのか尋ねたところ、城下に「満海」という修験道の行者がいたことを知るのです。
満海は京都の将軍足利義昭の近臣でありましたが、弓矢を捨て法師となり諸国を行脚し米沢城下で年月を送っていました。
彼は、生まれつきの正直者で、少しも私欲がなく、常に人をいたわる心の持ち主なので、近在の者ばかりでなく、遠国の者にも慕われ尊敬されていました。
ところが老衰となり8月3日の辰の刻に霊去してしまいました。
満海は右目を失明していたというのです。
「満海」上人のことをこのように聞いた輝宗は、亡くなった月日時刻まで政宗誕生と同時であることを知り驚きました。
誰しもが奇異の思いをしたと伝えられています。
しかし、伊達家の正史『性山公記録』には、政宗公誕生秘話を次のように伝えています。
これが最上義光です。
長くなったので……つづく
面白い話しが巷で話されているようです。
残念ながら、その番組は見る事が出来ませんでした。
ですから、反論するにも何に反論すれば良いのかわからない次第です。
まぁ、政宗がスペインの血を引いているのなら、父輝宗か母最上義姫のどちらかが同じくスペイン人でないと行けませんね。
すると福島県や山形県の血筋もスペイン系が居るわけで、顔立ちや毛髪にも、まれに西洋系の特徴が出てきてもいいのでは無いでしょうか?
しかし、そんな話しは今までに聞いたことも、ありませんねぇ。
まぁ、それだけ政宗公が人気者である証拠だと思いますので自分も嬉しい限りです。
そこで噂になる要因が一つあります。
それは側室の中に異国人の女性が居たことです。
政宗公の人生の半分は、戦地か江戸屋敷での暮らしでしたから、長崎から南蛮人が江戸へ来ていることは確実です。
こんな話しが残っています。
フランシスコ会の神父ベアト・ルイス・ソテロは、今のスペイン・セビリア市の上流貴族階級出身の宣教師です。
慶長8年(1603)にメキシコ…マニラ経由で来日しました。
慶長15年の事です。
ソテロの教会堂は浅草にあり、そこへ一人の武士が訪ねてきたのです。
この武士は伊達家の勘定奉行でした。
以前、彼の妻が病気の時、教会堂付属病院の医師であるペトロ・デ・ブルギーリョス修道士に治療してもらったことがあったようです。(彼は茶道の清水道竿の祖父で江戸勘定奉行)
何故ここに彼が来たかというと、政宗公は側室の中でも異国人の女性(侍女とも)をもっとも愛していたとも言います。
その女性が病になり日本人の多くの医師達に診てもらったのですが一向に良くならず、往診を頼みに来たのでした。
ソテロの命令でブルギーリョス医師が江戸の仙台屋敷に行き、女性は全快したそうです。
政宗公は感謝のしるしに治療代に加え金・銀の延べ棒や絹地、衣装を贈りましたがソテロは受け取りませんでした。
それは、宣教師が治療するのは利益の為では無く、神の愛そして隣人の愛の為に治療するのです。と断ったのです。
政宗公に取って、贈り物の拒絶は初めてのことで驚き、公はソテロとその医師に会見を申し入れるのです。
二人は献上品としてパンを五十個、ローソク三十本、薬剤になるチョウジ(蕾を乾燥させる)三斤(1.8キロ)コショウ三斤を持って、仙台屋敷に参上したのです。
この時代にパンも凄いですね。
ソテロが日本語を話すことを知って、公は長時間語り合い、領内に置ける布教活動も許したそうです。
たまたま、この絵を見つけました。 政宗と常長とソテロの会見の様子です。
チョット寄り道が長くなりました。
政宗公の誕生秘話
伊達政宗公は、永禄十年(1567)8月3日辰の刻(午前8時)
羽州置賜郡長井荘米澤(現:山形県米沢市)の城内で生まれました。
父は伊達家十六世伊達輝宗22歳
母は山形城主、最上義光(もがみよしあき)の妹義姫20歳でした。
生まれた男の子は、右手をしっかりと握りしめ、7日が過ぎた時、手の平が開きました。
そこには、墨で書いたかのような「満海」と言う文字が現れています。
輝宗は、不審に思い城下領内に「満海」という者がおるのか尋ねたところ、城下に「満海」という修験道の行者がいたことを知るのです。
満海は京都の将軍足利義昭の近臣でありましたが、弓矢を捨て法師となり諸国を行脚し米沢城下で年月を送っていました。
彼は、生まれつきの正直者で、少しも私欲がなく、常に人をいたわる心の持ち主なので、近在の者ばかりでなく、遠国の者にも慕われ尊敬されていました。
ところが老衰となり8月3日の辰の刻に霊去してしまいました。
満海は右目を失明していたというのです。
「満海」上人のことをこのように聞いた輝宗は、亡くなった月日時刻まで政宗誕生と同時であることを知り驚きました。
誰しもが奇異の思いをしたと伝えられています。
しかし、伊達家の正史『性山公記録』には、政宗公誕生秘話を次のように伝えています。
これが最上義光です。
長くなったので……つづく
「政宗と常長とソテロの会見の様子」
絵も残っているのですね。
ひーさんの博識には驚きます。
続きが楽しみです。
政宗スペイン人疑惑とはチョッと話題がずれますが、
最上義光の肖像が出てきたのでひとこと・・・
最上家が盛んに周囲の豪族を切取りしていたころのこと
中山玄蕃頭という殿様が中山町に城を構えており、
最上家の政略により一人娘を嫁がせていましたが
あるとき姫が病に臥したとの知らせに山形まで見舞いに出向きました。
しかし、これは真っ赤なウソ!
途中待ち伏せに遭い敢無く最後を遂げ、領地を奪われてしまったのでした。
同様に隣りの谷地城主白鳥家などもだまし討ちに遭い滅びてゆきました・・・
時は流れ、戊辰戦争、明治維新となり
新政府に恭順した山形城(すでに最上家ではない)を
解体することとなったときのこと、谷地の大工
細矢某は真っ先駆けて山形城の本丸床下にもぐり込み
「殿様の敵!!」と叫びつつ芯柱を挽き切り、
300年前の恨みを晴らしたとのことです。
ちなみにこの大工の細矢某はお袋の曾爺さんだったらしい・・・
公は長時間語り合い、領内に置ける布教活動も許したそうです。
仙台とキリスト教
この後のお話知りたくなりま~す
受け入れる
そういう器量~大事です~ね (^^♪
さすがですね (^_-)~☆
興味深々で読んでいたら~ あ・あ~
早く続きをお願いしますね (^∇^)/
本にも書いてあるのですが、自分も勉強しながらです。
現実離れしている話もあるので、政宗スペイン説よりウソっぽかったりしてwwww
勇気あるご先祖さまをお持ちでしたね。
山形の領地はさっぱりわからないです。
そんな先祖が居たら、調べたくなりますね。
最上家・・・兄弟共根性悪いね。
確かに、隠れキリシタンは宮城県にもかなりありそうです。
色々調べていると、キリシタンにぶつかります。
チョット時間掛かりますが、見つけたらメモしてまとめたいと思います。
政宗がスペイン・・ローマに使節団を出した理由はこの辺にあるのかも知れませんね。
後に鎖国が無ければ、また違った日本があったのかも知れません。
それがいいか?悪いか?は別として。