やれることをやる。
ただ、それだけです。
それもやらないで、四の五の言っても始まりません。
考えても言わない。
言っても責任をとらない。
そんな報道姿勢を糾弾する場面がありました。
公共放送は、公共性を有するべきだ。
それが守られない場合は、電波を停止すると大臣が発言されたそうです。
その通りでもあるし、その通りでもないようです。
公共の電波を利用する限り、公共性を保つ自浄作用が働かなければならない。
それを判断するのが誰かということが抜けています。
主語がない話なんてもう聞きたくない。
かつては、偏った判断基準が段々と閉塞感につながっていった。
誰かが、方向性を持った判断基準を示し、何となく追随していった。
「誰か」が問題であったはずです。
「誰か」がいろんな人ではなく、もちろん国民ではなかったことが問題だった。
今日のテーマは、「なんとなく、むしゃくしゃ」です。
公共性、公平が戦後教育の大きな判断基準でした。
皆が、平等の教育機会を持つよう努力してきました。
理解できないまま、次の段階に入っていかなければならない。
これだけは理解しなければならない、教えなければならないと誰(先生、親)もが思いました。
出来ない子も、出来る子も突っ走ってきました。
試験で篩い落とされて、数人の子供が栄誉を勝ち取りました。
篩い落とされた子供達は、敗者のイメージをなんとなく背負わされました。
篩いの上に残った子たちが時代を形成していきました。
大企業に入り、官僚になりました。
私は、それが意味があることなのか、はなはだ疑問です。
できる子は、出来ない子に教える。できる子も理解するまでは出来ない子だった。
できる子が教える暇もなく、次々にテーマが与えられる。
出来ない子は、教えてくれるできる子に尊敬と友情を感じました。
出来る子は、出来ない子がなぜ出来ないか知らずに育つようになりました。
かつての勉強が出来ない子は、勉強ができる子に、「かけっこ」はこうすると早く走れると教えることができました。
平等、公平はそんなことでも保たれていました。
それが、判断基準(勉強ができる)が偏ってしまい、多くの不平等が生まれました。
勉強ができる子は、会社に入っても勉強ができる証(何々大学卒業)を振りかざして優位性を唱えました。
同じ価値観の成功者(社長、役員)の成功体験に流されて、会社の倒産まで異を唱えないのです。
中小企業では、学歴は半分程度大事にされます。零細企業では、それが何だとなります。
やる気と工夫が優先されます。皆が大企業には入れない。
平等、公平は、時として間違った方向に導く旗印になってしまう。
金持ちと貧乏の比率が、「2」を越えているのがヨーロッパや日本です。
これが、「4」を越えると不満がくすぶり始め、「5」を越えると革命が起き、
「6」を越えると戦争になると言われています。
中国は、「5」に近い数字です。年収3万円の人が国民全体の4%もいる国です。
危ない国家です。内乱が心配です。
日本だっておかしい。
同じ仕事をしても、給料は半分の人が多い。
公共事業の役所だって、臨時採用の人が20-25%近くいます。正社員と似た仕事をしています。
その人達は、生活に苦しんでいます。子育ても厳しい、その前の結婚さえ難しい。
貧乏が悪いとは言いません。
それなりの理由がありますから。
平等でない社会です。
それなりの生き方があるはずです。
お金を得るには、それなりに努力が必要です。
自分の時間を、お金儲けに捧げなければなりません。
失うものも多い。
お金はないけど、時間はある。
家族で食事をとれました。
今は、時間も団欒も根こそぎ奪ってしまう。
掛け持ちでパートタイマーとして働かなければならないからです。
でも、一生懸命生きています。
それなのに、平等、公平を唱える。
いろんな意見があるのは当たり前です。生きている立場が違います。
どこに基準をおいた平等を言っているのか疑問です。
だったら、いろんな意見が出てもいいじゃないかと思います。
それが自然です。
少しすっきりしました。
私は、出来ることをためらわずやっていきたい。
誰々がやる仕事じゃないかなんて思いません。
やれることを、やれる人がさっさとやれば良い。
平等、公平を唱えるあまり、窮屈になるようでは主旨から外れます。
お互いに検閲が始まり、無責任がいつのまにかはびこるからです。
さてさてと あっさりさーと 生きよかな
2016年3月16日