
絵のタイトルは、「こんな日が来るんだね」です。
今日のタイトルは、「今を生きる(Part4)」です。
夜中に足がつった。
家の前の森の下草を刈ったからでしょう。
合間にカフェに行き、お好み焼きを焼く。
買い物に行く。
都度、長靴を登山靴(防寒靴として、私にとっては最適)に履き替える。
私達がいなくなれば、借りている耕作放棄地は元の草ぼうぼうになるだろう。
空き家も同じく草と庭木が伸び放題となり空き家さえも見えなくなるだろう。
森も雑木で、うっそうと暗くなることだろう。
稼がなくなった夫は、やっかいもの。
産めなくなった牛、卵を産まなくなった鶏、走らなくなった競走馬は殺処分される。
コロナに罹れば隔離される。(実際は、入院できず自宅待機も多い)
拒否すれば、罰金または懲役である。
そうだろうか。
私は生きている。
生産性が低かろうが、役に立たないと思われようが生きている。
畑を耕せば、庭の木を剪定すれば、森の雑木を伐れば、鳥が寄ってくる。
土に光が差し、バクテリアが枯葉やごみを分解する。
共存とはいうものの、生きにくい。
役に立っているかと問われれば、はたと考えてしまう。
姨捨ができない世の中です。
雪下ろしもできない年寄りです。
耕作放棄地が見捨てられる。元々は原野かもしれない。
森を切り開き、増える家族のために、そばを植え野菜を植えた。それが長い間に森に返った。
空き家も同様です。
嫌なんです。
下草が生えてる森は、借景にはなりにくく、竹が陽を塞ぐのが見ていられない。
耕作放棄地を耕すだけで、先祖に申し訳が立つのです。
空き家を解体することができないから、せめて庭木を剪定し草を刈る。
散歩するには、通りに日が当たり、庭木や花を見るのが楽しいし、癒されたい。
木々で埋もれていた蔵をきれいにすれば、カフェとして活用できる。
パンやピザを焼き、お好み焼きもついでに焼けば、都会に行かなくてもコーヒーが飲める。(酒も)
子育てをする若者にはできない仕事です。年金暮らしの私達だからできること。
体力との勝負です。
しなくてもよいのではというささやきとの葛藤です。
私は生きている。屍ではない。意思があるし、美意識もある。
子供たちは、私の背中を見ている。
いつまでも元気でいてくれよ。
元気だけじゃ物足りない。
生きてる証が欲しい。
まだまだ見ぬ景色がある。夢だった仕組みの革命がある。
スマホよりさらに便利なものがある。
コロナをどう乗り越えるのか試したいし、どう変わるのか見てみたい。
通勤をしなくても仕事ができる。
駅近から暮らしやすいに変化する不動産価値の変動をこの目で見たい。
田舎の風景を求め週末ごとに大移動しなくてもよくなるのです。
各自治体が、国からの交付金がなくても自前でやれるかつての藩に変わる自由往来の時代が来る。
生きてるものも、病んでるものも、さらに死んでるものも価値を失わない。
そんな知恵が活きる社会が見てみたい。
不自由が 知恵の連鎖で これもあり
2021年1月23日
<<あとがき>>
コロナ病床がひっ迫している。
長野県の自治体連合は、縦割り管理を打破し、各病院の話し合いで役割分担のネットワークを創った。
コロナがあったから生まれた広域連合(共存)です。しかも、一年前から。
やればできるのです。補助金も罰金も必要なかったのです。
ドイツで、自転車に乗りりんご園に行く年金生活者の話を聞きました。
りんご園を継承できない。
さすればと、ネットワークができ、りんごは一級品ではないけれど作り続けられる。
毎年の収穫が、手伝う年金生活者も含めた人たちの歓びとなっている。
日本だって負けてはいない。
森の持ち主が、森を開放した。
森について体験講座を開き、素人を指導した。
森は復活し、住む者も住まざる者も、週末ごとの森の生活を満喫されている。
ある地域では、「俺たちは森の恵み」で生活していると、漁業関係者が森の保全に勤めている。
世の中は、捨てたもんじゃない。
(筆者)