私は仕事に対しては、ストイックでした。
新入社員で入り、いきなり一億円のプラントを任されました。
三年目は7億円の仕事でした。異例と思いませんでした。
建築設計業者と打合せをしました。
私が描いたレイアウト通りに、建物の設計図が引かれていました。
私は何にも知りませんでした。大学で学んだものは役に立ちませんでした。
やっと卒業出来たのに偉そうなことは言えません。
女にはもてませんでしたが、先輩達からはとても可愛がられました。
破天荒でした。毎日のように飲み歩きました。安い給料はすぐに底をつきました。
先輩にご馳走になったのは、月に半分ほど。凄い飲みました。荒れ狂っていました。
ただ仕事だけは一生懸命やりました。
理由がありました。五年付き合った五歳年下の彼女がいました。
彼女は結婚したがっていました。ソニーの重役の娘でした。
鎌倉から通っていたその娘の引越しを手伝った時に、トラックに同乗した母親から、
故郷の資産を聞かれました。腹がたちました。
駆け出しの社会人には、結婚する知恵も金もありませんでした。
破局しました。
さらに荒れました。ひどかった。
その頃に亡くなったかみさんと会いました。
寿退社を告げに行ったかみさんに、総務課課長は「あれだけは、止めとけ。」
と言われたそうです。私の荒廃は、結婚と同時に止まりました。
更に仕事をしました。10年で辞めました。
東京に出て、設計事務所(助けてくれた方は60歳で亡くなられました)でアルバイトを
しながら就職活動しましたが、最初の会社しか知らない私は井の中の蛙でした。
100社に履歴書を送りましたが、試験さえ受けさせてもらえませんでした。
やむ無くサービスの仕事で外資系の会社に入りました。
一年で、プロジェクトエンジニアに変わり、現場でコーディネーターをしました。
会社の人には無理でも、私にはできました。
前の会社でプロジェクトエンジニア、設計、開発をやっていたので難しくはありませんでした。
日本人の地位が低い。プロジェクトが面白いことに気付き、39歳で転職しました。
今度は転職に一年をかけました。途中で決まった2社を断り大手エンジニアリング会社に
プロジェクトエンジニアとして入社出来ました。とても歯が立たない仕事内容でした。
転職して2年目に転機が来ました。食品プロジェクトでした。
後にも世話になった先輩がプロジェクトマネージャーでした。
それからずーっと帰宅は12時頃でした。
ストレスは凄かった。合間に競馬をやっていました。勝てませんでした。
借金が出来ました。解消したのは49歳でした。5年かかりました。
エンジニアリング会社をリストラされました。
子会社に転籍させられる候補に上がりました。理由は食品担当だから。
転職先は外資系の会社(二回目)でした。
エンジニアリング会社でも、外資系会社でも、業者にご馳走することはあっても、
接待は受けませんでした。
最初の会社で東広島市にいた頃(30~34歳)私は試作の手配担当者から、よく言われました。
悪い金を業者からもらうなと。
会社の先輩で、業者に顎で使われる人(廃人)を教えられました。惨めな姿でした。
ここでも先輩から可愛がられました。規格外れでしたから。
長くなりました。
タイトルは潔癖症でした。
いい加減さとない交ぜになった生き方でした。これが良かった。
潔癖症が、最後まで諦めさせなかった。
いい加減さが自らが壊れるのを助けた。
壊れるのは二種類あります。潔癖症で鬱になること。
真面目一本で、ものの本質を見ようとしないこと。
お利口では駄目なんです。型破りの成長がないし、爆発力がないのです。
今になって、たくさんの授業料を払ってきました。
生まれた時は何も持ってないから元々なんです。死ぬ時も持って行けないから。
財産は人、友人です。
先輩達から、いっぱい教えられた。今度は、私が返す番です。
潔癖症でしたね。
あなたは、真面目だけど思い切ったことをする。
あなたにとって、久しぶりに面白い奴(こと)に巡りあったと、楽しんでいますね。
当たりです。
私は残す気はない。
返したい。
順番だから。
無欲です。
しかし、挑戦であることに変わりはない。
ああ長くなった。
こんなに書かないと、今の心境を表現出来ないなんて、情けない気もします。
寝なきゃね。
明日が最後の寺子屋。
2013年9月3日(手記から)
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いくぶん、人生を甘く見ている自分が感じられます。
「良し」とする部分です。自分を肯定しているところです。
そして格好良く見せようとする意図が見えます。
私は、自分の生き方を肯定もしませんし、否定もしません。
ただ、それしか無かったと割り切るようにしています。
努力をしないで、裏切った人達は多くいます。
両親であり、付き合ってきた多くの女性です。
その時に帰れませんから、後悔はしません。
そのことも含めすべて自分の責任です。
これからはただひたすら返す番です。
支えられてきた先輩たちにありがとうは言えます。
それでは、先輩たちに申し訳ありません。
出来ることを、朽ちるまでやり通すだけです。
2015年の初めの日に思うことです。
2015年1月1日
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