『アエネイスミッション』[Aeneas Mission ]

建国の使命を抱くアエネイスのフアストミッションは自軍団自民族引き連れて炎上壊滅するトロイからの脱出である。

『トロイからの落人』  FUGITIVES FROM TROY   第7章  築砦  214

2014-02-21 10:46:25 | 使命は建国。見える未来、消える恐怖。
 紀元前2000年のころからクレタ文明は、急速に隆盛に向かい、進展、繁栄してきていた。クノッソス、その他の地域に宮殿が建てられていた。そのなかでもクノッソスの宮殿は極彩色の荘厳美麗の木造4階建ての建物であった。また、トータス、マリア、ザイロス、フエストス、アギアテナダなど、港近くに、クノッソスの宮殿に模して設計されてはいるもの4階建てという大きさでなく、総じて同一のデザインで宮殿が建てられていた。宮殿の役割は、クレタの各地から集まる物資の集散の役目を果たし、貯蔵もする、加工もする、再分配、交易の拠点であった。宮殿を中心に街区が形成され、港湾都市としても発展した。また、宮殿にはクレタ文明独自の祭き施設がもうけられ、多神教のクレタの信仰の中心でもあり、『聖別の角』『双斧』が飾られていた。宮殿の遺跡からは、印章や粘土板が発掘され行政の役割も担っていたと考えられている。それらの宮殿がこの爆発地震で全てが倒壊したのである。繁栄隆盛のクレタでは、手早く見事にこれを再建した。倒壊して埋もれた宮殿の上に宮殿を建てたのである。それは後世に至って発掘によって確かめられている。
 またまた大地震である。爆発大地震の170年余りのちの紀元前1450年、今度はクレタ島に大地震が起きた。この地震で再び宮殿が倒壊した。今度は、それらを再建するためのクレタ島の森林資源である樹木は伐採されつくし、失われてしまっていた。宮殿の再建どころか、土器、青銅器を焼く燃料にも事を欠いていたのである。クレタの人々は、樹木伐採による森林破壊、大地土壌の劣化を招き穀物の収穫は激減した。また、火山灰の降灰、二酸化硫黄の流出による気候の変化がもたらす作物の不作、ドミノ倒しのように続く自然連鎖、10年20年と農作物の不作が続き、クレタの人々は混乱に陥いり、島から人が去っていったとも言われている。そして、この地震から300年後クレタ文明は潰え去ったのである。
 クレタ文明の受難は、2度にわたる自然の猛威、天変地異。周辺諸国との交易での隆盛に、枯渇に至るまでの森林樹木の伐採、盲しいた統治者の暴虐が招いた文明の終焉と言って過言ではない。後世に語り継がれるヨーロッパ最古の優れた伝説のクレタ文明が終わりを迎えるころ、文明の中心であったクノッソス宮殿で何があったのか。この時期に殺されたと思われる多数の子供たちの骸骨が遺跡で発見されている。この目を覆うような考古学的事実が何を語っているのか。クレタ島に何があったのか、今も不明のままである。
 紀元前1300年のころギリシア人たちは海賊と思われる暴虐さでクレタ島に進出し、植民し、ポリスを形成し、クレタ統治に君臨した。彼らは文明の育成者ではなく、侵略、破壊者としてクレタを統治したのでは無かろうか。

『トロイからの落人』  FUGITIVES FROM TROY   第7章  築砦  213

2014-02-21 07:21:07 | 使命は建国。見える未来、消える恐怖。
 クレタ島。それは四国の半分くらいの大きさの東西に細長い島である。島の東西の長さが260キロ、南北が60キロと狭い。この島には、2000メートルを超える独立峰の山が三つある。東部地区にあるのがデクテイ山で2148m。中部地区にあるのが神話のゼウスが生まれ育ったといわれるイデー山2456m。西部地区にあるのがレフカオリ山2452mである。気候は島の北側が地中海性気候、南側が北アフリカ性気候であり、温暖で過ごしやすい、しかし、先に述べた三つの山の頂には一年中雪が見られるといった島である。次にクレタ島の立地条件を見てみよう。海を隔てて東南のエジプトのアレキサンドリアには550キロ、東のレバノンには800キロ、西アジア、ギリシアアテネには200キロ、キクラデス諸島には100キロあまりの地点である。立地的に地球の文明の先進的な地点に位置していた。
 人類の歴史のなかでヨーロッパ圏において先駆文明であるクレタ文明と言われる文明が発祥した島である。その源流は紀元前3500頃に発している。アヱネアスの率いるトロイの民がクレタ島に上陸したのは、その時代から下って、2500年後の事である。この頃には、2度にわたる自然災害と人為的事情によって、クレタ文明は衰退して終焉しようとしていた。
 孵化期、揺籃期、そして、成熟期へと向かい、文明が興るには対価が必要であるが、文明が限度を超えて文明活動を行うことにより環境に影響を及ぼす、環境が破壊され損傷をこうむる。それが一因となって文明の基盤そのものが壊れるのである。
 クレタ文明の発祥するころのクレタ島は、ナラ科、カシ科の樹木の繁茂する島であった。考古学的地質調査で古代の樹木の花粉状態を調べたところ、ナラ科、カシ科の樹木の花粉が50パーセント近く認められたといわれている。また、クレタの人たちは、温和な人たちであったらしいといわれている。クレタ島の博物館の展示品には、ギリシア本土や他の地域の博物館の展示品に比べて武器や武具の類の展示品が極めて少ないのである。
 ところで、この時代、エジプト、中東地域では木材が不足していた。クレタの文明の興隆は、木材の輸出から始まった。クレタ人たちは、樹木を伐りに伐りまくって輸出した。それによる利益は莫大なものであった。大きな利益を手にしたクレタ人たちは造船業を興し、クレタ人の持てる豊かな創造性を生かし、森林資源を燃料として土器や青銅器を造り、それらを輸出することにより利益を獲得して大いに繁栄した。
 そこに自然が猛威をふるって襲い掛かった。紀元前1628年のキクラデス諸島の南端の島であるテラ島(現在のサントリニー島)の海底火山の大爆発である。200平方キロの島の3分の2が吹っ飛ぶといった大爆発であった。この島とクレタ島の間には、発生する大津波をさえぎる島嶼が全くない、それこそ言語筆舌では言い表すことのできない大津波がクレタ島に襲い掛かったのである。それに加えてクレタ全島をゆする大地震、火山灰の降灰、その災害を島全体に及ぼしたのである。