こうやってバカブログを綴りながら悦に入っている人間がロクでもない野郎であることは、読者諸兄の熟知事項であることは十分認識している。であるからして、デキソコナイのクソヤローの感謝の言葉など、知らぬ顔してさっさと便器に捨ててしまって構わない。
しかし、ナメクジにも角という諺があるように、ロクでもない人間だってヤルときにはヤルのである。世間の圧力に負けて、とりあえず「感謝」という言葉を使っとけばOKという逃げ根性やその場しのぎで言うのとはワケが違うのである。
「ホントにボクなんかが生きてて御免なさい、迷惑掛けて御免なさい」なのである。
こんなところで、いきなりエネルギーの話しを持ち出して大変恐縮なのであるが、元々人間は、数十億年という地球(宇宙)の営みの延長線上に極僅かな時間だけ「生きる」ことを許されたはずの動物である。人間が生まれたことが偶然か必然かはわからないが、トニカク、動物あるいは生物は、地球という閉じた(ホントは閉じてないかもしれない)物質循環とエネルギー循環の中で生きている。ボクが死んだら、現行法のもとでは火葬されるのであるが、灰以外の多くのボクは完全燃焼して二酸化炭素や水蒸気となって大気中に放出される。死ねば人畜無害の存在になれるのである。
しかし、生きているボクはどうか。確かに、キレイなオネェちゃんの前では人畜無害のフリをするだろうとの指摘には頷き必至であるが、ソレ以外に「人畜無害」と言える場面は見当たらない。今風に言えば、世間や環境に負荷を与えている悪玉「人間」なのである。
そのように考えることは必要以上のことで、オマエは俺達も悪玉同然だということを遠回しに言っているだけだという声も聞こえてきそう。しかし、最近の「感謝」の出発点が「御免なさい」にあるから仕方ないのである。
GW中は今年も二泊三日で「虹の岬まつり」に行ってきた。このおまつりについては、一風変わっているということで賛否両論あるのだが、基本的には「こどもゴコロ」を祝う「感謝際」である。と言ってもなんのこっちゃであろう。このおまつりの説明は難しいし、ここに集う人々のことを表現するのはさらに難しい。あえて言うなら、動物人間として「食物連鎖」に組み込まれることを望んでいるように見える人達の為のおまつりなのである。つまり太古的なまつりなのだ(太古のまつりをボクは知らないが)。しかしながらクリエイティブな側面も多いにあり、今年は手作り褌(フンドシ)の出店があったのには驚いた。そして、彼らのような人々こそ「何が何でも原発反対」の有資格者、しかもゴールドカードの優秀資格者であると思うのであるが、彼らに政治色は殆どないようなのである。
二泊三日のキャンプではテントや七輪を使ってそれなりに便利ではあるが、基本は不便を楽しんでいる。そして、夜は風の音を聞き、月光を浴び、暗い松林を見る。寄せては返す波の音とともに潮も香る。朝は水平線から登る太陽の光りと鳥のさえずりで目覚める。また、これがボクにとっては一番不思議なのであるが、テントの中で目をつぶると、外にいる人々がまるでボクの耳元で談笑しているかのようなクリアな声を感じるのである。そして、こういう一連を通じて、「ボク」が「世界」に溶け込んでいる一部であることに気が付いたりしてホッとするのと同時に、こういう感覚を大事にしとかなくちゃいけないとつくづく思うのである。一方、しばらくすると、こんなふうにのんべんだらりとしていたら、「オレ、ホントーに馬鹿になるんじゃ?」なんていう不安もよぎったりして、「幸」と「不幸」の波打ち際に立たされているような感覚に陥るのだ。しかし、いずれにしても、こういうアホキャンプの場合は、「馬鹿になってもいいじゃんか、オレ、生きてるし」という幸せ感が勝り、なんとなくではあるが、自然発生的に有り難いなぁという感情が湧いてくるのも事実である。そして、生命の源を育んだ太古からそれほど変化は無いと思われる大海を目の前にしながら、これまでボクと関わりのあった多くの人々のことを思い出して「お陰様で」と控えめに小さく呟いてみるのである。ホントーである。
なんだか最後にhiratakuwaらしくない一面をサラしてしまった感が強いが、この辺でこのシリーズを締めくくりたい。
ありがとう。
なお、息子は、今週末、オファー頂いたチームに体験参加する予定になっている。
終わり
しかし、ナメクジにも角という諺があるように、ロクでもない人間だってヤルときにはヤルのである。世間の圧力に負けて、とりあえず「感謝」という言葉を使っとけばOKという逃げ根性やその場しのぎで言うのとはワケが違うのである。
「ホントにボクなんかが生きてて御免なさい、迷惑掛けて御免なさい」なのである。
こんなところで、いきなりエネルギーの話しを持ち出して大変恐縮なのであるが、元々人間は、数十億年という地球(宇宙)の営みの延長線上に極僅かな時間だけ「生きる」ことを許されたはずの動物である。人間が生まれたことが偶然か必然かはわからないが、トニカク、動物あるいは生物は、地球という閉じた(ホントは閉じてないかもしれない)物質循環とエネルギー循環の中で生きている。ボクが死んだら、現行法のもとでは火葬されるのであるが、灰以外の多くのボクは完全燃焼して二酸化炭素や水蒸気となって大気中に放出される。死ねば人畜無害の存在になれるのである。
しかし、生きているボクはどうか。確かに、キレイなオネェちゃんの前では人畜無害のフリをするだろうとの指摘には頷き必至であるが、ソレ以外に「人畜無害」と言える場面は見当たらない。今風に言えば、世間や環境に負荷を与えている悪玉「人間」なのである。
そのように考えることは必要以上のことで、オマエは俺達も悪玉同然だということを遠回しに言っているだけだという声も聞こえてきそう。しかし、最近の「感謝」の出発点が「御免なさい」にあるから仕方ないのである。
GW中は今年も二泊三日で「虹の岬まつり」に行ってきた。このおまつりについては、一風変わっているということで賛否両論あるのだが、基本的には「こどもゴコロ」を祝う「感謝際」である。と言ってもなんのこっちゃであろう。このおまつりの説明は難しいし、ここに集う人々のことを表現するのはさらに難しい。あえて言うなら、動物人間として「食物連鎖」に組み込まれることを望んでいるように見える人達の為のおまつりなのである。つまり太古的なまつりなのだ(太古のまつりをボクは知らないが)。しかしながらクリエイティブな側面も多いにあり、今年は手作り褌(フンドシ)の出店があったのには驚いた。そして、彼らのような人々こそ「何が何でも原発反対」の有資格者、しかもゴールドカードの優秀資格者であると思うのであるが、彼らに政治色は殆どないようなのである。
二泊三日のキャンプではテントや七輪を使ってそれなりに便利ではあるが、基本は不便を楽しんでいる。そして、夜は風の音を聞き、月光を浴び、暗い松林を見る。寄せては返す波の音とともに潮も香る。朝は水平線から登る太陽の光りと鳥のさえずりで目覚める。また、これがボクにとっては一番不思議なのであるが、テントの中で目をつぶると、外にいる人々がまるでボクの耳元で談笑しているかのようなクリアな声を感じるのである。そして、こういう一連を通じて、「ボク」が「世界」に溶け込んでいる一部であることに気が付いたりしてホッとするのと同時に、こういう感覚を大事にしとかなくちゃいけないとつくづく思うのである。一方、しばらくすると、こんなふうにのんべんだらりとしていたら、「オレ、ホントーに馬鹿になるんじゃ?」なんていう不安もよぎったりして、「幸」と「不幸」の波打ち際に立たされているような感覚に陥るのだ。しかし、いずれにしても、こういうアホキャンプの場合は、「馬鹿になってもいいじゃんか、オレ、生きてるし」という幸せ感が勝り、なんとなくではあるが、自然発生的に有り難いなぁという感情が湧いてくるのも事実である。そして、生命の源を育んだ太古からそれほど変化は無いと思われる大海を目の前にしながら、これまでボクと関わりのあった多くの人々のことを思い出して「お陰様で」と控えめに小さく呟いてみるのである。ホントーである。
なんだか最後にhiratakuwaらしくない一面をサラしてしまった感が強いが、この辺でこのシリーズを締めくくりたい。
ありがとう。
なお、息子は、今週末、オファー頂いたチームに体験参加する予定になっている。
終わり
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