最近、ボクよりリトルリーガーの記録が多くなってると思う、病気で休んでしまった夕方なんだけど、今回も、リトルリーガーの記録(誕生までのイキサツ)をしておこうと思う。
リョー坊は、1999年9月29日生まれだ。現在は7歳だ。
彼が生まれたころボクはヒドイ状態で、彼の出産を微塵も喜ぶことはできなかった。むしろ、ボクをさらに苦しめるモノが世の中にひとつ増えたと思ったほどだ。そんな調子なもんだから、リョー坊がボクになつくわけがなかった。
だけど、実家を出てアパートで暮らすようになったころから(リョー坊が2歳くらい)、ようやく一緒に遊ぶようになったと思う。そして、その頃、リョー坊がどちらかというと「暴れん坊」の部類だなということに気がついた。
時代劇かなんかで戦っているシーンがテレビに映ると、リョー坊は異常にコーフンして棒を振り回すことが多くなった。また、独りでいるときも、棒を振り回して見えない敵と戦っているのもしばしばだった。
そんな戦いぶりを見て、これはムダなエネルギーの消費と思ったボクは、彼にプラッチックのバットを与えたんだ。それが彼と野球の出会いだったんだと思う。
んで、ボクがよく憶えているのは、リョー坊が実にうまくバットを振ったことだった。しかも左打ちで・・・。そして、大きめのボールだったんだけど、下からゆっくり投げると、ソレをなんのためらいも無く打ち返したから、さらに、ビックリ仰天だったのだ。
そんなことがあったのが、3歳の頃だったと思う。
そういうワケで、その頃から遊びといえば、野球(バットでボールを打つ)で、ボクもリョー坊の上達が面白くなって、いろんな工夫をして遊ぶようになったんだ。
例えば、新聞紙をピンポン球程度に丸めたボール(ビニルテープで巻く)を沢山作ったり、バッティングティーを自作したり、部屋の中で思いっきり投げられるタオルボールを作ったり、釣用の鉛板を貼り付けたちょっと重めのプラッチックバットを自作したり、ハネ打ちをしたり、夜間練習設備を自作したり・・・そんな具合だ。
傍から見ると、最近の遊びは練習そのものなんだけど、リョー坊にとっては「遊び」の延長に過ぎないようなかんじなんだ。いっつも楽しそうなんだ。ただ、試合形式で負けちゃうと死ぬほど悔しがるけど・・・。
そんなワケで、ボクが草野球をやっていたことや、何度か高校野球に連れて行ったのがヨカッタのかわかんないけど、小学校に入学する前から「野球がしたい」って言い出したんだ。
しかし、小学校1年生からじゃぁ野球部はムリだし、近所に住んでる高校んときの体育の先生にコーチをしてくれないかって頼んでみたものの断られたりだったんだけど、地域のスポーツNPOにキッズソフトボールがあったから救われたんだ。
ところで、せっかくだから、リョー坊と遊んでいて(練習をやっていて)、感じたことを記録しておこうと思う。
リョー坊と遊んでいると、時々、ボクは、何物にも代え難い無上の喜びみたいなものを感じてしまう。こんなのはボクだけなんだろうかと思いつつ、そのことについて深く考えたので、そのことも記録しておきたい。間違ってるかもしれないけど・・・。
今から、数十万年から数万年前の氷河期の時代、人は主として狩猟によって生きていたのだと思う。男たちは様々な用具を巧みにつかって獲物を追いかけ、そして、家族や部族を守るために、時には、命をかけて戦わなければならかったんだと思う。だから、男たちは、子どもの男の子に対して、早く一人前になってもらいたいと考えていたんじゃないだろうか。そんな気がする。
だとするなら、男たちは、子どもたちに狩や戦いの方法を早い時期から教えていたとしても不思議じゃないような気がする。そして、それを早く吸収したいって気持ちが子どもにはあったはずだ。小さいうちだと「物覚えがいい」って言われるけど、それはDNAに組み込まれたものなんじゃないのかなって思う。そして、それを後押しするのが、褒めてやることだったり、親子の絆ってやつじゃないのかなって思う。
だから、最近、ボクは子育てに関してシンプルに考えるようになった。
「太古に帰れ」だ。
最近、「早寝、早起き、朝ごはん」が脳の発達にとって重要だって言われているけど、これは人類が人類になるために獲得してきた大事な習慣じゃないのかなって思ってる。一部で人類のある時期は夜行性だったって説があるけど。
ま、そんなワケで、「野球」を一種の「狩猟」と考えると、ナットクいくことがイロイロある。
ネコが動いているものをジーっと見て飛びつくこと、犬がボールを一生懸命追いかけること、それって獲物を追ってることに他ならない。
子どもが意味無くテレビをジーって見てしまうこと、ボクがフライやゴロを捕球した瞬間に無上の喜びを感じてしまうこと、それって獲物を追ってるってことじゃないかなって思う。
ま、いいかどうでも。んっもう、めんどくせぇー。トニカク、ボクとリョー坊は野球が好きってことなのだ。
リョー坊は、1999年9月29日生まれだ。現在は7歳だ。
彼が生まれたころボクはヒドイ状態で、彼の出産を微塵も喜ぶことはできなかった。むしろ、ボクをさらに苦しめるモノが世の中にひとつ増えたと思ったほどだ。そんな調子なもんだから、リョー坊がボクになつくわけがなかった。
だけど、実家を出てアパートで暮らすようになったころから(リョー坊が2歳くらい)、ようやく一緒に遊ぶようになったと思う。そして、その頃、リョー坊がどちらかというと「暴れん坊」の部類だなということに気がついた。
時代劇かなんかで戦っているシーンがテレビに映ると、リョー坊は異常にコーフンして棒を振り回すことが多くなった。また、独りでいるときも、棒を振り回して見えない敵と戦っているのもしばしばだった。
そんな戦いぶりを見て、これはムダなエネルギーの消費と思ったボクは、彼にプラッチックのバットを与えたんだ。それが彼と野球の出会いだったんだと思う。
んで、ボクがよく憶えているのは、リョー坊が実にうまくバットを振ったことだった。しかも左打ちで・・・。そして、大きめのボールだったんだけど、下からゆっくり投げると、ソレをなんのためらいも無く打ち返したから、さらに、ビックリ仰天だったのだ。
そんなことがあったのが、3歳の頃だったと思う。
そういうワケで、その頃から遊びといえば、野球(バットでボールを打つ)で、ボクもリョー坊の上達が面白くなって、いろんな工夫をして遊ぶようになったんだ。
例えば、新聞紙をピンポン球程度に丸めたボール(ビニルテープで巻く)を沢山作ったり、バッティングティーを自作したり、部屋の中で思いっきり投げられるタオルボールを作ったり、釣用の鉛板を貼り付けたちょっと重めのプラッチックバットを自作したり、ハネ打ちをしたり、夜間練習設備を自作したり・・・そんな具合だ。
傍から見ると、最近の遊びは練習そのものなんだけど、リョー坊にとっては「遊び」の延長に過ぎないようなかんじなんだ。いっつも楽しそうなんだ。ただ、試合形式で負けちゃうと死ぬほど悔しがるけど・・・。
そんなワケで、ボクが草野球をやっていたことや、何度か高校野球に連れて行ったのがヨカッタのかわかんないけど、小学校に入学する前から「野球がしたい」って言い出したんだ。
しかし、小学校1年生からじゃぁ野球部はムリだし、近所に住んでる高校んときの体育の先生にコーチをしてくれないかって頼んでみたものの断られたりだったんだけど、地域のスポーツNPOにキッズソフトボールがあったから救われたんだ。
ところで、せっかくだから、リョー坊と遊んでいて(練習をやっていて)、感じたことを記録しておこうと思う。
リョー坊と遊んでいると、時々、ボクは、何物にも代え難い無上の喜びみたいなものを感じてしまう。こんなのはボクだけなんだろうかと思いつつ、そのことについて深く考えたので、そのことも記録しておきたい。間違ってるかもしれないけど・・・。
今から、数十万年から数万年前の氷河期の時代、人は主として狩猟によって生きていたのだと思う。男たちは様々な用具を巧みにつかって獲物を追いかけ、そして、家族や部族を守るために、時には、命をかけて戦わなければならかったんだと思う。だから、男たちは、子どもの男の子に対して、早く一人前になってもらいたいと考えていたんじゃないだろうか。そんな気がする。
だとするなら、男たちは、子どもたちに狩や戦いの方法を早い時期から教えていたとしても不思議じゃないような気がする。そして、それを早く吸収したいって気持ちが子どもにはあったはずだ。小さいうちだと「物覚えがいい」って言われるけど、それはDNAに組み込まれたものなんじゃないのかなって思う。そして、それを後押しするのが、褒めてやることだったり、親子の絆ってやつじゃないのかなって思う。
だから、最近、ボクは子育てに関してシンプルに考えるようになった。
「太古に帰れ」だ。
最近、「早寝、早起き、朝ごはん」が脳の発達にとって重要だって言われているけど、これは人類が人類になるために獲得してきた大事な習慣じゃないのかなって思ってる。一部で人類のある時期は夜行性だったって説があるけど。
ま、そんなワケで、「野球」を一種の「狩猟」と考えると、ナットクいくことがイロイロある。
ネコが動いているものをジーっと見て飛びつくこと、犬がボールを一生懸命追いかけること、それって獲物を追ってることに他ならない。
子どもが意味無くテレビをジーって見てしまうこと、ボクがフライやゴロを捕球した瞬間に無上の喜びを感じてしまうこと、それって獲物を追ってるってことじゃないかなって思う。
ま、いいかどうでも。んっもう、めんどくせぇー。トニカク、ボクとリョー坊は野球が好きってことなのだ。
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