モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

電信の思い出・東京中央電報局(1)(その3)

2016年05月13日 | 寄稿
◆寄稿 赤羽 弘道 東京中央電報局(1) (まえがき)東京中央電報局(以下、東京中電という)は、わが国の最大の電報局で、地方の電報局の経験しかない私などには、遠い世界の存在に思えていた。著者の赤羽氏は、逓信省本省、電電公社本社の勤務が長かったが、戦地から復員直後の昭和21年と昭和32年、昭和44年の3 回、この東京中電に勤務され、その思い出を書いておられる。3回目に勤務した昭和44年当時は、電 . . . 本文を読む

電信の思い出(その2)

2016年04月30日 | 寄稿
◆寄稿 赤羽 弘道 辰野郵便局時代 名古屋逓信講習所を卒業して配属された辰野郵便局の身分は事務員で、初任給は日給90銭であった。辰野郵便局は明治27年開設(1894)<当時は平出郵便局>、昭和10(1935)年に新築され、外壁はコンクリート作りの2階建てだった。職員数は約30ほどの特定郵便局(当時は3等局と呼んだ)であった。 なお、特定局は、明治の初め郵便制度ができたとき、地元の資産 . . . 本文を読む

電信の思い出(その1)

2016年04月15日 | 寄稿
赤羽弘道氏の自分史「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月発行)から、著者のご承諾をいただき、電信関係の記述を抜粋しご紹介します。抜粋に当たっては、一部、要約・省略させていただいたことをお断りします。これから数回、掲載予定です。(増田) . . . 本文を読む

世紀の遺物

2016年04月01日 | 寄稿
◆寄稿 椎名 敬一 私は、昭和24年(1949)、港区麻布の東京電気通信学園の普通部電信科に入学、9ヵ月の通信の訓練を受け、翌年2月に卒業しました。さらに東京中央電報局で、2ヵ月間、通信の訓練を受けた後、世田谷等々力電報局に配属され(参考1参照)、モールス音響通信に従事しました。   当時はまだ音響通信が華やかな時代で、学園入学前にモールス符号を全部暗記させられ、在学中は毎朝テストがあり、文字ど . . . 本文を読む

大分電報甚句(その2)

2016年03月21日 | 寄稿
◆寄稿 作詞・大分電報同窓会会員 ア~  ドスコイ ドスコイ 揃うた 揃いました 懐かしい顔が  ア~ ドスコイ ドスコイ 稲のゃ 出穂より なお良く揃うた  ア~ ドスコイ ドスコイ 大分電報時代を甚句によめばヨ~ ア~ ドスコイ ドスコイ ア~ 大正、昭和に平成と 時は移りて 人 変わり   ホイ 遠い昔が 懐かしい   電報文化を ひもとけば   ホイ 文明開花の 象徴と 言われて . . . 本文を読む

大分電報甚句(その1)

2016年03月14日 | 寄稿
◆寄稿 作詞・大分電報同窓会会員 電報時代を甚句によめばヨ~   ア~ ドスコイ ドスコイ ア~ 時は明治の 二年秋 文明開化に 先駆けて       ホイ 電信時代の 幕が開く 大分電報の 始まりは       ホイ 明治十年  神無月 二豊に文化の 橋渡し イロハのイから ウナ電と     ホイ カタカナ文字と 格闘の モールス通信 思い出す      ホイ 杵鑽 トンツーや KPと 技 . . . 本文を読む

「トンツー」とともに過ぎ去った少年期

2016年02月15日 | 寄稿
◆寄稿 戸村 彰義 昭和25年(1950)1月の寒い日の朝、広島学園でモールス音響通信を学んだぼくは、同級生のO君と配属先の音戸郵便局を目指し、本州側の波止場で渡し船に乗った。潮風が肌に冷たい。 音戸町に着くと、幅3メートル程の道があり、その両側に店や家が立ち並んでいた。5分ばかり歩くと、道路の右側に洋館風の建物があり、音戸郵便局の看板がかけられていた。 建物の正面にある石段を上りドアを開く . . . 本文を読む

電信柱(バシラ)とモールス通信

2016年02月01日 | 寄稿
◆寄稿 樋口 実 アメリカ西部劇映画のDVDの中ではよく見られる情景だが、木材を燃料とする古い蒸気機関車の線路沿いに立つ木柱に張られた銅線を、馬に乗った盗賊団がナイフで切断したり、駅舎の片隅で通信電報を送っている人間もろとも、殺害破壊したりする。 あの場面で、駅員が操作している通信機械が、モールス通信機である。 わが国では、明治維新後に、新橋~横浜間に蒸気機関車の線路が布設された。その時 . . . 本文を読む

有線通信職のころ

2016年01月09日 | 寄稿
◆寄稿者 高崎雄三 『百代』第2号に増田先輩の「去るもの疎し」というモールス通信の話しが載っている。それを読むと私も遠い昔を思い出してしまう。 わが又従兄は戦時中に船舶通信士だった。米軍機の銃撃で指を2本失ったが、戦後アマチュア無線局を開き、のこる指で器用に電鍵を叩いていた。その姿をみて私も無線通信士になろうと思ったのが電気通信との長いご縁の発端である。 鈴鹿学園の普電科を出て三重県内の小さ . . . 本文を読む

モールス通信と健康法

2015年12月31日 | 寄稿
◆寄稿 中野逸平 「体操の先生より、指先を使うピアノの先生の方が、長生きする」との俚言を、何時、何処で憶えたかは不明ですが、その言や良しとして、私は八十七才の日々を元気で過ごして居ります。と申しますのは自らの健康保持のため、冒頭の俚言を信じ、以前から机上に青年時代に従事したモールス通信の用具だった電鍵を置き、対面する壁には、集音函に収めた当時の音響器が備えてあり、これを始動するための乾電池 . . . 本文を読む

幸田露伴と電信

2015年12月24日 | 寄稿
◆寄稿 桑原守二  幸田文氏の中央電気通信学園に保存された古い記録 文藝春秋12月号に明治の文豪、幸田露伴の曾孫にあたる随筆家の青木奈緒氏の一文があった。同氏の祖母である作家の幸田文氏(露伴の次女)が父につ いての思い出を語った話であるが、表題の「ツートントンの娘」というのが目を引いたのである。幸田露伴は18歳のとき北海道の余市に電信技師として赴任し たが、これを生涯忘れず、文氏に「ツート . . . 本文を読む

青春の音

2015年12月18日 | 寄稿
◆寄稿 大原安治                年に数回「NTT退職者の会」がある。 「退職者の会」というと聞こえはいいが、要するに「呑み会」である。ところで、この呑み会に出て来る連中といったら、還暦を過ぎた私たちが一番若者で使い走りをさせられるくらいだから、かなりロートルばかりだ。昭和一桁ハナタレ小僧、大正中期で一人前、明治うまれでやっと長老扱いである。最長老は御歳90ウン歳、矍鑠としてまだ呑 . . . 本文を読む