天下の三陪臣!奥田直政こと堀監物と堀久太郎秀政の再評価を!
★番外質問者①
以下の天神山砦の事、西陣東陣に関する守備武将を教えて下さい。
◆長谷川
当時長浜城主は柴田勝豊であり柴田勝家から羽柴秀吉に投降していた勝豊は病気で京都で名医曲瀬道三
のもとで療養中で彼は余呉天神山砦には実際には来ておらず。勝豊の家臣達が余呉に派遣されていました。
砦の構築にあたったのは勝豊の家臣達であり当時の長浜衆と呼ばれる人々です。勿論砦構築にたずさわの
は武士階級だけではなく長浜町民も動員された事でしょう。天神山砦の縄張りは城郭研究史から見て優れ
た縄張りであり当時の長浜衆の高い技術を垣間見る事ができます。長浜市内の人必見の遺跡とも言えます。
またこの砦の計画は当然秀吉の指事と戦略によるもので砦構築の主体は羽柴秀吉と言えます。つまり織豊
系陣城の白眉ともいえる砦跡です。
★番外質問者②
何故?東西の砦や東西の陣跡が存在するのでしょう?
◆長谷川
合戦初期3月の秀吉の計画では余呉天神山に柴田勢を引き付けて是に優る軍勢の人数を擁していた秀吉
と丹羽長秀の軍勢で柴田の先陣佐久間勢を挟撃する算段であったと記されています。ところが柴田佐久間
勢はこの秀吉の目算を看破して行市山山系に多数の単郭の砦つまり陣営を構築して秀吉の策戦には乗らな
かったのたのです。すると秀吉は天神山砦を撤廃して第二線陣地を増強する方策に出たのです。従って
C西陣凸 D東陣凸も不要になり陣小屋も撤廃する事になった。久太郎小屋を撤廃し柴田方に利用され
無い様にする為に黒田官兵衛衆を秀吉は派遣している文献が存在致します。但し柴田勝豊が京都に居た
ように黒田官兵衛も播磨に居てその配下が余呉に派遣された可能性があるのです。
行市山城塞群の様子
凸佐久間ーー凸前田ーー凸徳山ーー凸不破ーー凸金森ーー凸原 柴田方第一線陣地
天神山 A西砦凸 B東砦凸 C西陣凸 D東陣凸 羽柴方第一線陣地
神明山砦凸 堂木山砦凸 菖蒲谷砦凸 東野山砦凸 羽柴方第二線陣地
前田利家の陣城とされる別所山砦の記念写真「ウッデイパル城郭フォーラム」より
★番外質問者③
柴田勝家が出張してきた狐塚陣の位置は何処なんですか?
長谷川
もう今市の墓地として壊れてしまつた狐塚は★の位置です。
凸佐久間ーー凸前田ーー凸徳山ーー凸不破ーー凸金森ーー凸原 柴田方第一線陣地
天神山 A西砦凸 B東砦凸 ★狐塚 C西陣凸 D東陣凸 羽柴方第一線陣地
神明山砦凸 堂木山砦凸 菖蒲谷砦凸 東野山砦凸 羽柴方第二線陣地
1980年代に実施された滋賀県中世城郭分布調査において私は賎ケ岳合戦における西陣と東陣を調査して
いる。その砦の名称は今市上砦に便宜上なってしまい若い私は不満であった。西陣と東陣は小字名に登場
していたからである。賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月近江国伊香郡
(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。合戦初期の羽柴秀吉陣営
の概略は以下の模式図のとおりである。
天神山 A西砦凸 B東砦凸 C西陣凸 D東陣凸 第一線陣地
神明山砦凸 堂木山砦凸 菖蒲谷砦凸 東野山砦凸 第二線陣地
合戦初期の3月から4月になると秀吉はA、B砦を撤廃しC砦D砦も撤廃している。
この砦のなかでC西陣凸 D東陣凸の一組が秀吉が黒田官兵衛の家中に撤廃させた久太郎小屋に
該当すると私は類推した。以下の写真はD東陣凸の堀切で有志の皆様とともに写した記念写真。
さて『名将言行録』では、戦国時代における天下の三陪臣が挙げられている。 「陪臣にして、直江山城、
小早川左衛門、堀監物杯は天下の仕置をするとも仕兼間敷(しかねまじき)ものなり」である。豊臣秀吉
が主君で、その直臣である上杉景勝の家臣直江兼続、毛利輝元の家臣小早川隆景、堀秀政の家臣堀直政は
それぞれ陪臣にあたり、陪臣であるが天下の仕置も務まると評価したものである。また堀直政の代わりに
龍造寺隆信の家臣鍋島直茂が入るパターンもある。
さてさて堀久太郎秀政は戦国の優等生として織田信長にも羽柴秀吉にも非常に高く評価されている。しかし
奥田直政こと堀監物の知名度は現代では全く無名である。しかし江戸時代初期には堀久太郎秀政と堀監物は
高名な戦国武将列伝に登場している。堀秀政が後に越後春日山城に移動した時に山城の山麓に堅固な水堀を
普請したのが堀監物であるとされる。当時長浜市に居住した布施一族も堀監物に仕官した記録が『淡海温故
錄』に記されている。この布施氏は近江蒲生郡布施氏と異なる近江伊香郡の布施氏である。天下の堀監物に
仕官した伊香郡布施氏も、また是を採用した堀監物も天晴れの人物と私は思う。いつの世も名将の影に名臣
ありである。
★番外質問者①
以下の天神山砦の事、西陣東陣に関する守備武将を教えて下さい。
◆長谷川
当時長浜城主は柴田勝豊であり柴田勝家から羽柴秀吉に投降していた勝豊は病気で京都で名医曲瀬道三
のもとで療養中で彼は余呉天神山砦には実際には来ておらず。勝豊の家臣達が余呉に派遣されていました。
砦の構築にあたったのは勝豊の家臣達であり当時の長浜衆と呼ばれる人々です。勿論砦構築にたずさわの
は武士階級だけではなく長浜町民も動員された事でしょう。天神山砦の縄張りは城郭研究史から見て優れ
た縄張りであり当時の長浜衆の高い技術を垣間見る事ができます。長浜市内の人必見の遺跡とも言えます。
またこの砦の計画は当然秀吉の指事と戦略によるもので砦構築の主体は羽柴秀吉と言えます。つまり織豊
系陣城の白眉ともいえる砦跡です。
★番外質問者②
何故?東西の砦や東西の陣跡が存在するのでしょう?
◆長谷川
合戦初期3月の秀吉の計画では余呉天神山に柴田勢を引き付けて是に優る軍勢の人数を擁していた秀吉
と丹羽長秀の軍勢で柴田の先陣佐久間勢を挟撃する算段であったと記されています。ところが柴田佐久間
勢はこの秀吉の目算を看破して行市山山系に多数の単郭の砦つまり陣営を構築して秀吉の策戦には乗らな
かったのたのです。すると秀吉は天神山砦を撤廃して第二線陣地を増強する方策に出たのです。従って
C西陣凸 D東陣凸も不要になり陣小屋も撤廃する事になった。久太郎小屋を撤廃し柴田方に利用され
無い様にする為に黒田官兵衛衆を秀吉は派遣している文献が存在致します。但し柴田勝豊が京都に居た
ように黒田官兵衛も播磨に居てその配下が余呉に派遣された可能性があるのです。
行市山城塞群の様子
凸佐久間ーー凸前田ーー凸徳山ーー凸不破ーー凸金森ーー凸原 柴田方第一線陣地
天神山 A西砦凸 B東砦凸 C西陣凸 D東陣凸 羽柴方第一線陣地
神明山砦凸 堂木山砦凸 菖蒲谷砦凸 東野山砦凸 羽柴方第二線陣地
前田利家の陣城とされる別所山砦の記念写真「ウッデイパル城郭フォーラム」より
★番外質問者③
柴田勝家が出張してきた狐塚陣の位置は何処なんですか?
長谷川
もう今市の墓地として壊れてしまつた狐塚は★の位置です。
凸佐久間ーー凸前田ーー凸徳山ーー凸不破ーー凸金森ーー凸原 柴田方第一線陣地
天神山 A西砦凸 B東砦凸 ★狐塚 C西陣凸 D東陣凸 羽柴方第一線陣地
神明山砦凸 堂木山砦凸 菖蒲谷砦凸 東野山砦凸 羽柴方第二線陣地
1980年代に実施された滋賀県中世城郭分布調査において私は賎ケ岳合戦における西陣と東陣を調査して
いる。その砦の名称は今市上砦に便宜上なってしまい若い私は不満であった。西陣と東陣は小字名に登場
していたからである。賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月近江国伊香郡
(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。合戦初期の羽柴秀吉陣営
の概略は以下の模式図のとおりである。
天神山 A西砦凸 B東砦凸 C西陣凸 D東陣凸 第一線陣地
神明山砦凸 堂木山砦凸 菖蒲谷砦凸 東野山砦凸 第二線陣地
合戦初期の3月から4月になると秀吉はA、B砦を撤廃しC砦D砦も撤廃している。
この砦のなかでC西陣凸 D東陣凸の一組が秀吉が黒田官兵衛の家中に撤廃させた久太郎小屋に
該当すると私は類推した。以下の写真はD東陣凸の堀切で有志の皆様とともに写した記念写真。
さて『名将言行録』では、戦国時代における天下の三陪臣が挙げられている。 「陪臣にして、直江山城、
小早川左衛門、堀監物杯は天下の仕置をするとも仕兼間敷(しかねまじき)ものなり」である。豊臣秀吉
が主君で、その直臣である上杉景勝の家臣直江兼続、毛利輝元の家臣小早川隆景、堀秀政の家臣堀直政は
それぞれ陪臣にあたり、陪臣であるが天下の仕置も務まると評価したものである。また堀直政の代わりに
龍造寺隆信の家臣鍋島直茂が入るパターンもある。
さてさて堀久太郎秀政は戦国の優等生として織田信長にも羽柴秀吉にも非常に高く評価されている。しかし
奥田直政こと堀監物の知名度は現代では全く無名である。しかし江戸時代初期には堀久太郎秀政と堀監物は
高名な戦国武将列伝に登場している。堀秀政が後に越後春日山城に移動した時に山城の山麓に堅固な水堀を
普請したのが堀監物であるとされる。当時長浜市に居住した布施一族も堀監物に仕官した記録が『淡海温故
錄』に記されている。この布施氏は近江蒲生郡布施氏と異なる近江伊香郡の布施氏である。天下の堀監物に
仕官した伊香郡布施氏も、また是を採用した堀監物も天晴れの人物と私は思う。いつの世も名将の影に名臣
ありである。