城郭 長谷川博美 基本記録

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明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』14

2019-08-12 20:19:53 | 戦国
明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』14

小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作品には敬服
致します。小野先生の益々の御発展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非紹介したいと思います。

作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷川博美が担当しています。また当ブログでの解説も私が
担当させて頂いております。なお順番を追って紹介しますが皆様は順次ページを追って御鑑賞下さい。

★先ずは『元亀の騒乱』1から読まれる事をお勧め致します。各回の逸話やエピソードや図や文書も逐次
毎日増補記入しておりますので繰り返して前のページから是非ご覧くださいませ!宜しく御願いします。
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◆羽柴藤吉郎秀吉の巧みな処世術そして主君信長の心の中の「鬱」を吹き飛ばすような大言壮語です。
彼こそはサラリーマンの手本と言うべきでしょうか?藤吉郎の言う。天下は元亀足利幕府の目指した
畿内元亀天下統治や三好長慶の様な畿内政権の天下ではなく日本、唐、天竺をも含んだ天下ではない
だろうか?それは織田信長や藤吉郎の志向した破格の壮大稀有の東洋史学的な天下ではないだろうか?

◆明智光秀の正式な日向守任官は?
天正3年 朝廷より、従五位下と「惟任(これとう)」の姓を賜り、正式に日向守に任じられている。
天正三年段階で九州の名族「惟任」姓を明智光秀に名のらせる織田信長方の先見の明の戦略に驚く。

◆秀吉の木下姓の文献とは?
織田信長家臣の秀吉は初期の名字は「木下」を用いた。もっとも、秀吉の氏素性は確かではない。
秀吉の木下姓が確認される文献資料は織田信長が、美濃の土豪坪内利定に与えた知行安堵状の添状
(永禄8年(1565年)11月2日付)に「木下藤吉郎秀吉」と署名しているのが初発であろう。

◆秀吉の木下から羽柴姓への改姓時期は?
織田信長家臣の秀吉は戦功を重ね信長の有力部将として頭角を現す。木下から羽柴に改めたことを示す
最初の文献は元亀4年(1573年)7月20日付で大山崎惣中に縄の供出を求めた書状で「羽柴藤吉郎秀吉」
と署名している。

◆私、長谷川はNHK名古屋文化センター様で約5年米原市近江公民館で約4年都合9年の『信長公記』
の講師歴を持っているが

『信長公記』では、元亀3年7月24日条に近江一向一揆掃討の指揮官として「木下藤吉郎」の名を記し、
同年8月条では虎御前山に建設された小谷城攻めの為の「陣城」砦の「定番(じょうばん)」として
「羽柴藤吉郎」の名が記されている。『武功夜話』等も参考にすると近江では秀吉は浅井方から奪取
した横山城の在番や虎御前山城の「定番(じょうばん)」と次々と信長のもとで北近江に地盤を確保
している。
◆2010年 長谷川博美 虎御前山城見学会 写真右端が著者 長谷川


◆連歌師 里村 紹巴「さとむら じょうは」は織田信長が畿内平定を終えた祝宴で織田信長に二本の
開いた扇を献納している。末広がりの二本の扇を信長が収めると言う。『信長公記』に記された日本
を手に取ると言う暗喩や比喩にこそ、連歌師、里村 紹巴「さとむら じょうは」の恐ろしい物を感じる。
公家の三条西公条をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光
など多数の武将とも交流を持ち、天正10年(1582年)、明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは
有名である。本能寺の変後には豊臣秀吉に疑われるも難を逃れた。

◆連歌師 里村 紹巴「さとむら じょうは」も訪れた記録がある東近江市 布施山城見学会の記念写真
                  前列黒い帽子姿の著者 ↓ 長谷川博美

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