灰小屋 はいごや
以前合併前の岐阜県上石津町にある歴
史民俗資料館を訪れたとき「近江浅井型
灰小屋」が紹介されていた記憶がある。
灰小屋とは農家のカマドや風呂の灰を屋
外の一カ所に溜めておいて酸性となった
畑に灰をまく事によりアルカリ性に中和
して畑作物の生育の助けとする肥料を保
管する建物である。近江浅井型灰小屋が
西美濃の流布した事は滋賀県の江州音頭
が西濃に伝播した事とも関連があろう。
また上石津の領主の高木氏が米原市の樋
口氏と縁戚関係を持った事なども記憶の
断片に残るものだ。
2019年盆の墓参りに滋賀県長浜市余呉
町文室に行くと
ママス川に面してぽっん小さな灰小屋が残っ
ている事に気が付き写真に収める事にした。
灰小屋は昭和、平成の歴史の変遷のなかで
消えゆく運命にある貴重な民俗学的資料で
もある。写真にあるように灰が蓄積する度
に板を上層へとはめ込む構造となっている。
このような灰小屋は余呉町文室では屋号
「与左衛門」さんの畑にも存在した。幼か
った子供の私は小人の家かと思いのぞいて
見ると灰だけが収めてありガックリきた記
憶がある。隣りに住んでおられた「与左衛門」
さんのお婆さんの表情や声が私の記憶の中に
生々しく蘇ってきて非常になっかしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/96/508985283374af19477ada522a53fc11.jpg)
さて私は灰をかき集める道具「十能」じゆ
うのう、と言う小さなスコップ状の道具を思
い出した。幼児だった私はこの十能と言う道
具が私専用のスコップだと思った。※出典
『日本人の暮らしが生んだ知恵辞典』より↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/fb/a3916fcafc448842cb46b4950984c422.jpg)
もっとも私は伊香郡人なので伊香弁で、じゅ
うの、と短く発音していた記憶がある。
※出典 『日本人の暮らしが生んだ知恵辞典』
より↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/f3/1c97616364f41915d8fbc74a3e088048.jpg)
さてさて、元滋賀民俗学会会員で滋賀県
犬上郡佐目の田畑、元町議会員に灰小屋が
佐目に残っているとの事でそっそく現地の
田畑先生のお宅の灰小屋の取材に行った。
こちらの灰小屋は外便所に隣接して設けら
れた昭和末期の灰小屋と言う説明を本人様
から聞いた。わざわざ取材の為に灰小屋の
周りの草刈りをしていただき感謝します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/6d/4a0366059400958cc16c9cc68839711c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/ef/280c6a683e4a1371813f5161c248b395.jpg)
灰小屋は基本的に灰の中の残り火から火災
になる事もあり民家とは離れた独立した小屋
として畑に建てられものであろう。読者の皆
様でもし灰小屋が残っているならば写真に収
めておかれる事を是非お勧め致します。これ
も農事歴や民俗学の一部だと私は思う次第で
す。滋賀民俗学会の機関誌『民俗文化』が途
絶えて非常に淋しい限りです。元滋賀民俗学
会理事 長谷川博美
追記
余呉の灰小屋の写真の記憶が急に蘇った。
写真とは時間を超越して、過去の世界に見事
に行けるものだ。あった!あった!
昭和38年頃の滋賀県伊香郡余呉町文室の灰小
屋写真だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/cc/53ad50606a052754be380c88d179c349.jpg)
背後の家屋が谷口壮純先生宅だ令和の現在は
もうない。寒い冬期の写真で家屋の庇「ひさし
」に氷柱が見える。写真左にあるのが屋号
「与左衛門」さんの畑の灰小屋だ。眼鏡を付け
た人物は博学無双の滋賀民俗学会会員長谷川銀
蔵つまり私の父だ。丸顔の幼児が長谷川博美
つまり『城郭 長谷川博美 基本記録』の著者
本人だ。
以前合併前の岐阜県上石津町にある歴
史民俗資料館を訪れたとき「近江浅井型
灰小屋」が紹介されていた記憶がある。
灰小屋とは農家のカマドや風呂の灰を屋
外の一カ所に溜めておいて酸性となった
畑に灰をまく事によりアルカリ性に中和
して畑作物の生育の助けとする肥料を保
管する建物である。近江浅井型灰小屋が
西美濃の流布した事は滋賀県の江州音頭
が西濃に伝播した事とも関連があろう。
また上石津の領主の高木氏が米原市の樋
口氏と縁戚関係を持った事なども記憶の
断片に残るものだ。
2019年盆の墓参りに滋賀県長浜市余呉
町文室に行くと
ママス川に面してぽっん小さな灰小屋が残っ
ている事に気が付き写真に収める事にした。
灰小屋は昭和、平成の歴史の変遷のなかで
消えゆく運命にある貴重な民俗学的資料で
もある。写真にあるように灰が蓄積する度
に板を上層へとはめ込む構造となっている。
このような灰小屋は余呉町文室では屋号
「与左衛門」さんの畑にも存在した。幼か
った子供の私は小人の家かと思いのぞいて
見ると灰だけが収めてありガックリきた記
憶がある。隣りに住んでおられた「与左衛門」
さんのお婆さんの表情や声が私の記憶の中に
生々しく蘇ってきて非常になっかしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/96/508985283374af19477ada522a53fc11.jpg)
さて私は灰をかき集める道具「十能」じゆ
うのう、と言う小さなスコップ状の道具を思
い出した。幼児だった私はこの十能と言う道
具が私専用のスコップだと思った。※出典
『日本人の暮らしが生んだ知恵辞典』より↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/fb/a3916fcafc448842cb46b4950984c422.jpg)
もっとも私は伊香郡人なので伊香弁で、じゅ
うの、と短く発音していた記憶がある。
※出典 『日本人の暮らしが生んだ知恵辞典』
より↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/f3/1c97616364f41915d8fbc74a3e088048.jpg)
さてさて、元滋賀民俗学会会員で滋賀県
犬上郡佐目の田畑、元町議会員に灰小屋が
佐目に残っているとの事でそっそく現地の
田畑先生のお宅の灰小屋の取材に行った。
こちらの灰小屋は外便所に隣接して設けら
れた昭和末期の灰小屋と言う説明を本人様
から聞いた。わざわざ取材の為に灰小屋の
周りの草刈りをしていただき感謝します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/6d/4a0366059400958cc16c9cc68839711c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/ef/280c6a683e4a1371813f5161c248b395.jpg)
灰小屋は基本的に灰の中の残り火から火災
になる事もあり民家とは離れた独立した小屋
として畑に建てられものであろう。読者の皆
様でもし灰小屋が残っているならば写真に収
めておかれる事を是非お勧め致します。これ
も農事歴や民俗学の一部だと私は思う次第で
す。滋賀民俗学会の機関誌『民俗文化』が途
絶えて非常に淋しい限りです。元滋賀民俗学
会理事 長谷川博美
追記
余呉の灰小屋の写真の記憶が急に蘇った。
写真とは時間を超越して、過去の世界に見事
に行けるものだ。あった!あった!
昭和38年頃の滋賀県伊香郡余呉町文室の灰小
屋写真だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/cc/53ad50606a052754be380c88d179c349.jpg)
背後の家屋が谷口壮純先生宅だ令和の現在は
もうない。寒い冬期の写真で家屋の庇「ひさし
」に氷柱が見える。写真左にあるのが屋号
「与左衛門」さんの畑の灰小屋だ。眼鏡を付け
た人物は博学無双の滋賀民俗学会会員長谷川銀
蔵つまり私の父だ。丸顔の幼児が長谷川博美
つまり『城郭 長谷川博美 基本記録』の著者
本人だ。