滋賀城郭分布 毅然として真実に挑む人
何故か?吉田拓郎さん作詞「イメージの詩」
の歌詞の一節を何故だか?思い出しました!
これこそはと 信じれるものが この世にある
だろうか 信じるものがあったとしても
信じないそぶり ... 水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も 新しい船のように新しい海へ
でる古い水夫は知っているのさ新しい海の
こわさを
城郭分布の法則「陣立」の理論を理解せ
ず城郭配置や城郭分布論を語る事は現実
や現地に立脚しない作られた歴史空論だ。
今回紹介する余呉町と西浅井町の土塁は
城郭や陣塞に隣接するも冷静に評価する
ならば、杣人や山仕事に従事する人々の
なせる山道遺構の可能性もあり充分冷静
評価が必要であろう。また山中で巨大な
土塁に遭遇した時に4つの可能性が潜在
している。
①江戸時代の山仕事に使われた杣道。
②村境を明確に区画する為の境土手。
③城郭合戦遺構に付随した特殊遺構。
④猪垣などの農事山林人工の土手等。
西浅井の例 実際の城郭遺跡より撮影
右カーブする土手/杣道▼人間の後ろにあり
西浅井の例 杣道土塁の上を行く田畑理事
素晴しい西浅井の景観 入り込む入江が絶景である。
港湾の様子を視認できる要衝の地この地がある事だ。
▼余呉町の杣道 高い土塁が累々として続き余りにも巨大だ。
古戦場の地理を一望に俯瞰できる地理が重要
▼山頂からは賤ケ岳古戦場が眼下に望まれる。
数名の少人数でこの様な土塁を築く事は現実には不可能である。
まるで、水の抜かれた溜池やプールの様な異様な景観でもある。
▼余呉町の杣道 非常に巨大な土塁の、その異常さに驚愕する。
山中で、巨大な土塁に遭遇しても
絶えず5つの可能性が潜在してる。
①江戸時代の山仕事に使われた杣道。
②村境を明確に区画する為境界土塁。
③城郭合戦遺構に付随した特殊遺構。
④猪垣などの農事山林人工の土手等。
⑤騎馬を飼育する為の牧袋などなど。
因みにこの光景は摺墨と呼ばれる。
余呉の山奥の異様な光景でもある。
伝説による名馬摺墨「するすみ」と
関係ある遺構なのか?謎は深まる!
それにしても、宮本さん達の正直で
直情的な現地踏査の現実は机上論
の歴史講演とは異なる真に現場の真
の現実を伝える異彩を放つ見事な物。
◆八陣とは?
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
を引用すると「戦いに臨んで、陣を布
(し)く際の、8種の陣備えの形をいう。
わが国に古代中国の兵学思想が正式に
移入されたのは、735年(天平7)に
帰国した、遣唐留学生吉備真備(きびの
まきび)(695―775)らによるとされる。
方・円・曲・直・鏡の五行(ごぎょう)
の陣形や、易(えき)の八卦(はっけ)ある
いは井田法(せいでんほう)などの図式に
基づいて考案された諸葛亮(しょかつりょう)
の八陣や、孫子の九地結営(きゅうちけつえい)
の法などである。なかでも亮(孔明(こうめい))
の八陣図は、中国古来の天地風雲・竜虎(こ)
鳥蛇の八陣に、八卦の乾坤巽艮(けんこんそん
ごん)(四隅)・震兌離坎(しんだりかん)
(四方)を結合させたもので、これに洞当
(どうとう)・中黄(ちゅうおう)・竜騰(りょうとう)
・鳥翔(ちょうしょう)・連衡(れんこう)・
握奇(あくき)・虎翼(こよく)・折衝(せっしょう)の
名を冠している。これを受けて平安時代の文人に
して兵学者大江維時(これとき)(888―963)が
つけた魚鱗(ぎょりん)・鶴翼(かくよく)・雁行
(がんこう)・彎月(わんげつ)(偃月(えんげつ))
・鋒光(ほうこう)・衡軛(こうやく)・長蛇(ちょうだ)
・方円(ほうえん)という和名が後世までもよく使われた」
とあります。しかしこれらはあくまでも
軍学と言う机上論です。実際に中世
戦国時代にどの様に具体的布陣した
かを正確に知る貴重な文献としては
以下の現実知り分析する必要があり
ます。
長谷川
天文7年(1538年)朽木文書の491
『六角定頼陣立注文』から図解します。
長谷川
◆敵陣
先ず敵対する近江浅井氏の小谷城はこの図に
では北東にいます。当時大将は浅井亮政です。
◆先手
神照寺の京極高慶が先陣を務めています。また
口分田の陣する上坂定信は、京極氏の家老的な
武将で小谷姉川方面の見張りや哨戒の役目を担
布陣となっています。当時携帯電話はないです。
従って戦陣では見張り偵察は非常に重要です。
◆繫ぎ「つなぎ」
京極氏、上坂氏、と佐々木六角グループの連携
を執る為の必要から中継地点の八幡には
三井 平井の 二武将二陣を配置しています。
実質この三井、平井の2武将は六角の先手です。
◆六角方 第一線陣地の戦線の形成
平方に 下笠、楢崎、三上、の3将を布陣させ
その東の大東に永田、目賀田、池田、後藤の
佐々木六角の重鎮を配置し更に今川に三雲を
更に七条に進藤を配置、七条の後ろ備として
八条に三井、進藤を配置
◆六角方 第一線陣地の大観
西から下笠、楢崎、三上、三雲、永田、目賀田、
池田、後藤、進藤、三井、平井、と壮大な防御
線を形成しています。
◆一線と本陣のつなぎ
これは田村の永原重隆です。図では生の私に
による誤字ミス入っています注意して下さい。
◆本陣
本陣は六角定頼直属の親衛隊「馬廻」は配置。
◆脇備
箕浦に田中、横山、山崎、馬淵の四将を連ね
能登瀬の堀遠江守の陣所へと天の川ラインに
陣営を設定しています。これらは実質佐々木
六角方の第二陣の戦列に相当致します。
◆後備
もしも謀反の将南から現れて急に六角定頼の
背後を突かれる場合らは米原の太尾が重要な
後備や南近江からの兵糧兵站補給路が不可欠
また箕浦、能登瀬との連携連絡に太尾は必要。
長谷川
以上の解説を当時の陣営のグル―プ事の役割
や持ち場を考え合わせて更に図説を加えます
と以下の如くなります。
長谷川
つなぎ=中継所の事、戦陣や城郭配置としては
A城とB城の中継地点を「つなぎ」繫ぎの表現。
実例として近江宮部城は藤吉朗の虎御前山城
と信長の横山城の間の「繫ぎの城」次の如く
表現している。『信長公記』元亀三年より
「虎ごぜ山より横山までの間三里なり。
程遠く候間、其の繋ぎとして八相山・
宮部郷両所に御要害仰せつけらる。
宮部村には宮部善祥坊を入れをかせられ、
八相山には御番手の人数仰せつけらる。」
と明確に「繫ぎの城」中継地を表現してい
る。
対談者
滋賀城郭分布、毅然と、真実に挑む人々とは
城郭分布論や陣配置を理解そしやくした上で
現地の城址や土塁を見学したり踏査調査され
ている訳ですね!つまり偶然に城址を発見さ
れている訳ではなく城郭分布学を理解した上
で城址を純粋学門的に見学され発見されてる
事に私は本当に驚いてしまいます。そんな人
が居るなんて私には信じられない事なのです!
長谷川
天文7年(1538年)朽木文書の491
『六角定頼陣立注文』にしても『信長公記』
にしても一次資料であり現実的な文献資料
であると言う事です。これは夢物語ではない
現実です。現地史跡の土塁を見学している人
も夢物語の世界ではなく現実実際という世界
を正直に歩いて見学する力量を持っ人ですよ。
▼関ヶ原町宇喜多秀家陣 2,008年 過去の長谷川博美の写真
対談者
これだけ素晴らしい布陣をする優れた大将。
武将とは?大変な才腕才覚を持った人です?
長谷川
如何にも!名将大器ある武人だと言えます。
対談者
でも『信長公記』などには六角定頼などは
全く出て来ませんが?定頼は無名武将です?
長谷川
今一度、文献をよく読みましょう。
城址は、丁寧に見学致しましょう!
真実とは何か?歴史の本質は何か?
令和の現在1192いい国作ろう鎌倉
幕府の成立と孫に教えたら孫は、㍘
なります。歴史教科書が訂正された
からです。しかし人間は生身の生物
一度記憶した歴史は二度と脳内記憶
から訂正されません。これ大脳神経
医学的にシナプスと言う物質が脳内
で結節された時に記憶が形成されま
す。高齢者を対象に講演をする先生
は時に昔のままの歴史を語られる事
があります。当然の事ながら新しい
史実より高齢者は心地良い聞き覚え
ある歴史をつまり既知歴史を好む事
になります。私の様な正直人間さん
が新しき真実の城址など発見しても
日本中の人々は誰ひとり注目し振り
かえる人は全くおられません。この
ブロクの本当の読者は現実には10人
もおられないと言うの事が現実です。
長谷川
また吉田拓郎さんのイメージの詩の
一説が脳裏に浮かびます。
これこそはと 信じれるものが この世にある
だろうか 信じるものがあったとしても
信じないそぶり ... 水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も 新しい船のように新しい海へ
でる古い水夫は知っているのさ新しい海の
こわさを
対談者
佐和山城本丸の土塁を平気で冷静に
見学出来る人って本当にスゴイ人達!
長谷川
人の言説や通説やデマに一切惑わされない。
作られた風評や通説と異なる現実遺跡視認
の見学様です。二の四の五のゴチャゴチ
や言う定説を唱える事より、兄の言う事が
説と言う漢字なのですが。兄が正しいとは
限らない!足元の城址の現実を冷静に観察
する人が本当の意味で城郭遺跡見学者です。
単純な事です野球でピッチヤーズマウンド
一塁にでたならば一塁ベースを見て踏む事
が基本です城址に行き塁を見る塁に立つ事
は城郭論のお城を語る上の基本の基本です。
東野山城の土塁の前に整列する有志各位様
長谷川
文献『信長公記』には
六角定頼の偉業の足跡が残ってます!
彼は室町幕府 近江守護、管領代です。
『信長公記』天正10年、正月の
安土城への諸将や一般民への安土城の
殿舎見物の記録には
「暫時、逗留のところ、御白洲にて皆々
、ひえ侯はんの間、南殿へ罷り上げ、
江雲寺御殿を見物仕り侯へと、上意にて、
拝見申し侯なり。御座敷惣金、間毎に
狩野永徳に仰付られ、色々の写絵筆被尽、
四方の景気、山海、田薗、郷里。言語道断、面
四方の景気、山海、田薗、郷里。言語道断、面
白き地景、申すにばかりなし。」とあります。
これは、信長が六角定頼の為の殿閣や建物の
「江雲寺御殿」を安土城の南殿に移築した事
が解ります。やはり六角定頼とは偉大な人
だった残影が『信長公記』に記されてます。
長谷川
みなさん、江雲寺御殿こと、六角定頼をなめんなよ!
日本最大の中世石垣城郭観音寺城を忘れるべからず!
観音寺城ありて安土城が生み出された事!江雲寺御殿
こと六角定頼ありて安土南殿「江雲寺御殿」ある事を!
※六角定頼
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より
南近江(みなみおうみ)の戦国大名。六角高頼
(たかより)の次男。初め京都相国(しょうこく)寺
に入り、光室承亀(こうしつじょうき)と称したが
、1516年(永正13)守護代伊庭(いば)貞説の乱に
より近江に帰り、1518年兄氏綱(うじつな)の死に
より家督を継ぎ、定頼と名のった。当初、将軍
足利義稙(あしかがよしたね)の近侍として行動し
ていたが、1521年(大永1)から細川高国(たかくに)
とともに前将軍義澄(よしずみ)の子義晴(よしはる)を
援助して再三上洛(じょうらく)した。1532年(天文1)
から3年間、居城観音寺(かんのんじ)城(滋賀県近江
八幡(おうみはちまん)市)近くの桑実(くわのみ)寺に
義晴を迎えた。この前後、本願寺焼討ち(1532)、
美濃(みの)斎藤利綱(としつな)への援軍(1536)、
伊勢(いせ)長野氏攻撃(1540)を行った。1546年に
は義晴の子義輝(よしてる)の元服加冠役となり、
管領(かんれい)代・従(じゅ)四位下となった。また
北近江に浅井氏が勢力を伸ばすなか、これを箕浦
(みのうら)や小谷(おだに)城に攻め、一方、蒲生氏の
内訌(ないこう)に関与するなど家臣団統制を進め、
戦国期の六角氏の盛期を築いた。天文(てんぶん)21年
正月4日没。法号は★江雲寺光室承亀
対談者
しかし確かに六角定頼は破格の畿内管領代と言えます
が浅井三代の初代、亮政と彼の近江国人衆は再三六角
に敗れるも、亮政と言う武将はしぶとく復活する底辺
の底力湖北人の精神の源とは何だったのいでしょか?
長谷川
天文11年浅井亮政は1/16に52歳で亡くなります。
同年3/4には本願寺から喪主の浅井明政「田屋氏」
に香典1000疋が贈られておりますから浅井氏と
本願寺や江北の本願寺門徒つまり民衆との連携
が強かった事が推定されます。また浅井氏宗家
本宗家とはオモヤが田屋氏を婿に取っていた事
が解り、浅井久政は本来は浅井を継承するべき
立場で無かった事も類推する事が出来るのです。
この時代や現代でも喪主こそ後継者で家長です。