
◆はじめに
貴方の町に『日吉』『日枝』『山王』『八王子』
を冠した地名や神社が有りませんか?もしあれば
それらは全て近江「滋賀県」の比叡山に因む地名
です。それらの神社は、日吉神社から分祀された
事に因むもの歴史を持つ由緒ある場所と言えます。
◆山とは何か?
中世に「山」と言えば比叡山を一般に意味します。
天台宗の比叡山延暦寺や山麓の日吉大社は全国に
日吉神社、日枝神社、山王社、八王子社を分祀し
て比叡山延暦寺の末寺も日本全国へと広まってい
ます。
◆日枝山王信仰とは何か?
山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた折、
唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげん
ひつしんくん)」にちなみ、既に比叡山の守護神と
してご鎮座されていた日吉大神を「山王権現」と称
する、神仏習合の信仰です。

◆全国に多数存在した比叡山の領地が山門領
全国の山門領からは上納金や土地税「地子銭」
が上納される、システムになっておりました。
全国規模ですから莫大な税金が集積されます。
◆織田信長が明智光秀に比叡山の管理を委託。
※足利義昭が明智光秀の比叡山税金を横領!
『信長公記』の元亀四年癸酉
「一、明智地子銭を納め置き、買物のかはりに渡し遣はし侯を、
山門領の由仰せ懸けられ、預ケ置き侯者の御押への」とある。
「一、明智地子銭を納め置き、買物のかはりに渡し遣はし侯を、
山門領の由仰せ懸けられ、預ケ置き侯者の御押への」とある。
▲以上は足利義昭が明智光秀が管理していた
比叡山の税金を信長に断りなく着服した記録。
◆明智は比叡山の税金の管理を信長より委託
され、その富と財力で豪華な坂本城を築城し
全国を、明智勢が織田勢の外様ながらも転戦
できる軍事資金も得ていた事になろう明智が
活躍出来た背景には彼の様々な知識と才覚も
あるのだが織田信長が明智と言う下請け会社
を使っている事にある。明智光秀が主君信長
に謀反する原因は未だに決定打が出ていない。
明智光秀
経済的バックボーンは全国の比叡山領からの
税金管理を信長から委託された事であろう。
織田信長なる人は永楽銭を旗印にした如く
経済区の掌握者である事を忘れてならない。
◆武田信玄さえも比叡山の利権を望む!
元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山
焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」
と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興
させようと図った。天台座主の覚恕法親王
(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、
仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を
保護し、覚恕の計らいにより権僧正という
高位の僧位が武田信玄に元亀3年(1572年)
に与えられた。
◆江戸徳川幕府も叡山を望む!
寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野
桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。
山号は東叡山(とうえいざん) 。東叡山
寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は
徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊
は薬師如来である。
◆長谷川
もし明智光秀が自らの才覚に増長して信長
に十兵衛光秀が東奔西走して天下平定への
道が開けました。苦労の甲斐がありました。
と口頭で信長に直接伸べたとしたらら織田
信長と言う人の人格は株式会社織田の社長
は烈火の如く激しく激怒した事でしょう。
◆長谷川
おい!足利の派遣社員!偶然俺が君に坂本
と言う資金源を与えて活躍できる下地を作
り、お前は俺が作った線路の上のレールの
上を運転しただけの事では無いのか?お前
は織田信長に京、丹波、方面の局面だけに
委託されただけの臨時パートタイム部長?
俺の経営方針に対して何を言うか?よし
今度は御前ひとりの力量と器量や才覚で
出雲・石見を切り取ってみよ!中国備中
方面でも四国政策でも藤吉郎に先手を取ら
れているではないか?徳川家康の歓待役は
中止にする。早速藤吉朗に従軍する支度を
丹波に帰り準備せよ。と言われたら光秀は
用意周到前後策も全く用意せずに本能寺の
信長を殺害するしか仕方なかったか?自ら
正常心を冷静に保てなかったのか?秀吉の
中国大返しの俊敏で迅速な神速なる行動!
対照的に光秀は本能寺後は失策に次ぐ失策
や緩慢な行動の切れ味の悪さは全く対照的!
秀吉は人間の性格や本質を見抜く天才的な
人間心理学観察力のプロファイラー的な人
『信長公記』に羽柴秀吉と明智光秀が同行
する記録がしばしば見られる。藤吉朗とは
織田信長の思考を、よく観察研究しており
現代の二次会に相当する「お開きの会」に
も信長の家臣とし参加し、信長の心理や行動
観察する人間観察力の天才的人物。藤吉郎
は、なかなか長く目が出なかった明智光秀
の愚図で切れ味の悪さの本質を彼は観察看破
していた事であろう。その様な意味において
藤吉郎は明智や信長の行動パターンや人の
性格つまり行動心理学、相手のパーソネル
を充分に看破分析して事前に、危機管理
の準備や用意を文字通り用意周到にした人
であろう。本能寺の変の時に長浜城にいた
秀吉の妻や母親は見事に危機を切り抜けて
美濃坂内村へと逃げさせている。余りにも
出来過ぎた秀吉の危機管理の巧妙さの裏が
見えて来るような気がする。羽柴秀吉とは
敵を眩惑し撹乱する事には長けた人。また
秀吉は信長の子供を養子にするなど巧妙な
保身術もこれまた用意周到な武将と言える。
考え方を変えるならば上様「信長」の実子
を巧妙に人質に取り自らの安全保障にする
など主君の子供を人質に取るなどは極めて
巧妙な心理テクニックと言わざるを得ない。

長浜市西浅井町 庄 にある小字 明知谷
