城郭 長谷川博美 基本記録

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戦国鉄砲三段打ち!奇跡の長浜余呉天神山城遺構!

2020-11-18 05:52:09 | 城址見学心得
城郭ビイスタ論 上文字クリック

戦国鉄砲三段打ち!奇跡の長浜余呉天神山城遺構!
対談形式戦国歴史問答!

長谷川
令和2年見学する長浜天神山城は茶臼山城を含める
と全長400mにも達する長大なものです。

反論者
冗談じやない!その天神山は砦規模の物でしよ?
400mもの城郭遺構だったらばその城は当然の事
ながら大名権力指示により築城された城ですよ?

長谷川
素晴しい反論ですね!天神山が大名権力の城
ですか?見事な御指摘です。実は天神山城は
天正11年長浜城主柴田伊賀守勝豊が羽柴秀吉
に降伏し天下平定を目指す織豊政権の主催者
となる秀吉の指示によって築城された陣城で
すから貴方の指摘は100点満点と言う事です。
柴田勝豊=長浜城主=戦国大名=大規模城郭
羽柴秀吉=織豊政権=全国大名へ過渡期⇒天下。

長谷川
当然柴田勝家との対決に備えて築城された城
ですから当然大規模長大かつ当時戦国最先端
技術が使われた城であり当たり前の事ですね。
さもあらん。砦は国から飛び出した所に築城
するので「取手」とも表現されます。天正11
年柴田勝家の築城した内中尾山城「俗称玄蕃
尾城」も現代人がだれが見ても砦ではなく城
だと叫ぶ人が多いのですが、江戸時代の絵図
では勝家取手山と表記されています。実際に
行ってみるととんでもない戦艦大和の様な城
変な表現になりますが、玄蕃尾城が戦艦大和
ならば天神山城は、戦艦伊勢級でしようかね?

質問者
長谷川先生、織田信長軍団の長篠合戦の為に作ら
れた鉄砲陣地を実地見学された経験はありますか?

長谷川
開発により存在しませんが、長い長い塹壕が残って
いました、あるみ原の台地上に掘削普請れた、塹壕
遺構を城郭研究家池田誠氏と見学した経験あります。

質問者
それ本当に織田の鉄砲塹壕戦による銃撃手が窪地に
身を隠して武田軍団を狙撃する為に普請工事された
戦国、臨戦陣地遺構と言えますか?

長谷川
実際に発掘で鉄砲玉が出土した事が報告されてます。

質問者
しかし実際に戦国の銃撃手が身を隠し射撃した事を
文献史学で説明解説証明できますか?

余呉城郭研究会
▼余呉城郭研究会では塹壕は常識的に見学します。
▲堀久太郎小屋の塹壕写真
▼前田利家茂山陣所 塹壕写真

▼余呉平野の中央が茶臼山城その右が天神山2城遥か南が小谷城。

長谷川
第一級文献資料『信長公記』では「身隠しを」設け
と、明確に簡潔に記されています。この身隠の文言
の意味や実際現実の遺構の検証が城郭遺跡見学です。

質問者
長谷川先生と城郭遺跡を見学する場合にはチヤント
塹壕を見学する機会か現地遺構解説が常にあります。
でも一般のハイキングや歴史紀行では、城址看板や
城跡石碑を見て大満足引き揚げたくはありませんの、
私達はテレビドラマ「科捜研の女」のように言葉や
文字に惑わされない、地に足の着いた現場第一主義
が余呉城郭研究会だと思っております。例えば駅に
行っても改札口をスルーするだけが駅見学ではない
改札口も駅長室も切符自動販売機も駅舎も待合室も
ちやんと見学する事が駅見学であり城見学の本質よ!

長谷川
◆民俗学知識
肥後守「ひごのかみ」は竹細工の時のナイフの事です。
播磨守「はりまのかみ」は鉄道の無賃乗車の暗喩です。
これは近年の俗語ともいえるが古典的隠語俗語もある。
伊賀守「いがのかみ」は火薬、硝酸、担当の隠語です。

質問者
本能寺の変後清須会議で何故越前北陸の太守柴田勝家
が会議折衝で手に入れた領国や婚姻関係は何ですか?

長谷川
柴田勝家方から見れば
①鉄砲の生産地近江国友と言う鉄砲鍛冶を掌握する為。
②北陸近畿の要衝、湖北長浜は秀吉旧領で、重要拠点。
③織田氏女系本宗お市御料人と織田柴田縁組強化連携。
④北陸越前海産物流圏ともいえる、北国街道確実掌握。

対談者
ううん!なんともドライで現実的な現代的政略感覚だ!

質問者
軍事家、柴田勝家は「鉄砲の北近江長浜国友」の確保だ!

一般者
伊賀守「いがのかみ」は火薬、硝酸、担当の隠語ですね?

長谷川
織田信長の鉄砲の師匠が尾張「橋本一巴」はしもといっぱ
です。正式には橋本伊賀守、要するに鉄砲名人の伊賀守。

一般者
でも長浜城を清須会議で獲得した柴田修理介勝家は伊賀守
じやないでしよう!?

長谷川
天正11年期の近江長浜城主は勝家り甥、柴田伊賀守勝豊な
のです。つまり伊賀守つまり鉄砲長浜の伊賀守と言う事だ。
勝豊は当時秀吉に降参し京都で生瀬道三のもとで病気療養
中で賤ケ岳の合戦に実際に現地に向かったのが山路、徳永
、木下、小川、大鐘、などの柴田勝豊の家老重臣達つまり
長浜衆、または「柴田伊賀衆」彼等、柴田伊賀衆か秀吉か
ら陣城を構える事を命じられたのが今回の天神山城なので
す。

一般者
そんな馬鹿な?柴田伊賀衆など文献には絶対登場しない!

長谷川
そうでしょうか?天正11年3月末日余呉天神山城が築城を
終えた頃の羽柴秀吉が弟の羽柴美濃守秀長にあてた書状が
あります。一般の方に解りやすく現代文にしたものがある。

此処で注目したのが(柴伊衆)つまり柴田伊賀守勝豊衆の意味。
ここに登場する「堀の外」とは天神山城の堀の事でしょう。

◆長谷川ここで注目されるべき上記秀吉文書の意義は!
秀吉は戦国大名柴田伊賀守勝豊の臣下にも、堀秀政にも
黒田官兵衛衆にも筒井順慶にも前野長康にも木村重玆に
も指示を出している。これすなわち天下の大名達に陣小屋
撤去を指示している。これは秀吉が先ず秀吉傘下となった
武将達に指示下達してる。戦国大名達を束ねる「天下人」
への段階を歩み始めている証左とも解釈できるのですよ。

▼現地に実際に行ってみると、ものすごく巨大な堀切です。
 この現実を認識できる者はいったいどこにおられるのか?


一般青年様
すげえ~!俺実際に現場天神山城行いって見たいす!

一般女性様
ええっ!生々しい戦国実際の現場のリアルって感じ!
ワタシ何故か?ワクワクして来ましたわ!行きたい!

一般者
天神山城が長浜衆、柴田伊賀守の連中の城だとしたら
長浜衆は鉄砲と言う銃砲フル活用する三段打ちを計画
した可能性がありませんか?天神山に塹壕累々として
戦国鉄砲戦の遺構が生々しく残っているのではないか?

長谷川
11月21日見学致します。図面の右が三重鉄砲塹壕です。▼

長谷川
三重塹壕の現場写真です。被写体は余呉城郭研究会生月会長。

長谷川
▼三重鉄砲塹壕陣地の概念図です。

長谷川
▼現場には塹壕土塁累々として戦国武者の夢の跡が残ります。
 すげえ!すげえ!すげえ!これマジッすか?の現実ですよ。

一般者
これ絶対に行きたい!これ絶対に戦国リアルそのものだよ!

ウッデイパル城郭見学御案内!
城郭 片岡天神山城2城(茶臼山も含む3城)
特徴 ★ 賤ケ岳合戦 天正11年 初期段階の陣城
   ★ 典型的織豊系陣城にして高度な縄張技巧
講師 歴史城郭研究家 長谷川博美 当該ブログ著者
主催 余呉城郭研究会 ウッデイパル余呉
開催 2020年令和2年 11月21日 土曜
会長   生月茂氏
名誉理事 田畑喜久弘氏
現地受付 宮本さん
予約先 ウッデイパル余呉 城郭係
☎ 0749-86-4145

※お車で参加の人 当日午前10時 駐車料金無料
余呉観光館前/滋賀県長浜市余呉町下余呉1938番地

※電車で参加の人
JR北陸線余呉駅 当日午前10時10分

参加費 2500円
特典  ①送迎バスあり「見学会員用送迎バス」
    ②弁当付
    ③資料A4/8ページ
    ④講師による詳細現地遺構詳細解説
★注意 弁当用意の為に事前の予約制です。
★雨天決行されます。雨具御用意忘れずに!


コメント (4)
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