滋賀近江歴史城郭疑問符?
対談者
私には素朴な疑問があります。
何故?織田軍琵琶湖上水城ネットワーク4城
に一番織田軍の根本城郭、丹羽長秀の佐和山
城が入らないのか?素朴な疑問を感じますが?
一般者
素朴、純粋、真面目は良い事です。時に純粋な
心の子供が大人社会の矛盾を刺すような指摘を
する事もあります。それは真理かもしれません。
対談者
長谷川先生に長浜市余呉天神山城の西郭を案内
してもらいました。天正11年期の陣城遺構です。
また何故か?東近江伊庭山城と非常に似てます。
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▲長浜市天神山城▼東近江伊庭山城址
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長谷川
東近江能登川町の徳川家康の休憩所、伊庭御殿は
元来徳永石見守寿昌「ながまさ」の居館であった
と伝承されています。伊庭御殿の東山頂の伊庭山
の背後を守る伊庭山城は山麓居館に対する山頂の
詰め城であった可能性があります。また伊庭の乱
を引き起こして佐々木六角に半旗をひるがえした
近江国小守護代「伊庭氏」の元々の家臣が徳永氏
であったとされます。天正11年賤ケ岳の戦いの時
に羽柴秀吉は当時長浜城主だった柴田伊賀守勝豊
の家臣に徳永石見守寿昌「ながまさ」がおります。
長浜の天神山城と東近江の伊庭山城の形状が類似
する事を指摘された貴方は行政区歴史観から広域
の歴史遺跡比較研究視点が発達されたのでしょう。
一般者
確かに似てます!伊庭山城と天神山城は似てる!
これって歴史城郭の比較研究論と言うのですか?
対談者
そればかりか羽柴秀吉が修築した近江長浜市内の
横山城の南にある観音丸郭と、長浜市天神山城も
非情に似た類似した城郭だと思います。観音丸↓▼
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一般者
しまったわ!長谷川先生が観音丸をよく観察して
下さいと、言われた事の真意が今頃解りました。
越前金ケ崎城の2重堀切も見落としていました。
長谷川
まあまあ御気楽に、のほほん、のほほん、が大切。
世の中、ボーットしていたほうが気楽で楽しい!
▼長浜市余呉町天神山城 西城部
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▼長浜市天神山陣城現地解説版ブログ著者作成
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長谷川
横山城は発掘により秀吉期と思われる改修がその
発掘層位から報告されてます。文献『信長公記』
に信長から横山城代に秀吉が指名され事も記載。
一般様
しかし柴田伊賀守勝豊の家臣達が長浜市余呉に
きていた文献資料が実際あるのでしょうかね?
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長谷川
天正11年3月に羽柴秀吉から弟の羽柴美濃守秀長
にあてた書状には「柴伊衆」と表記されてます。
「柴伊衆」とは当時の柴田伊賀守勝豊家臣達の
徳永、山路、大鐘、木下、小川、などの長浜衆
の事を意味します。
対談者
私は長谷川先生と
東近江伊庭山城も
長浜市横山城も
同余呉町の久太郎小屋跡も
そして今度は長浜市余呉の
天神山城3城を見学します。
一般様
すげえなあ~是非行ってみたいなあ~!わくわくする!
城郭 片岡天神山城2城(茶臼山も含む3城)
特徴 ★ 賤ケ岳合戦 天正11年 初期段階の陣城
★ 典型的織豊系陣城にして高度な縄張技巧
講師 歴史城郭研究家 長谷川博美 当該ブログ著者
主催 余呉城郭研究会 ウッデイパル余呉
開催 2020年令和2年 11月21日 土曜
会長 生月茂氏
名誉理事 田畑喜久弘氏
現地受付 宮本さん
予約先 ウッデイパル余呉 城郭係
☎ 0749-86-4145 ★火曜は定休日です。
※お車で参加の人 当日午前10時 駐車料金無料
余呉観光館前/滋賀県長浜市余呉町下余呉1938番地
※電車で参加の人
JR北陸線余呉駅 当日午前10時10分
参加費 2500円
特典 ①送迎バスあり「見学会員用送迎バス」
②弁当付
③資料A4/8ページ
④講師による詳細現地遺構詳細解説
★注意 弁当用意の為に事前予約制です。
特徴 ★ 賤ケ岳合戦 天正11年 初期段階の陣城
★ 典型的織豊系陣城にして高度な縄張技巧
講師 歴史城郭研究家 長谷川博美 当該ブログ著者
主催 余呉城郭研究会 ウッデイパル余呉
開催 2020年令和2年 11月21日 土曜
会長 生月茂氏
名誉理事 田畑喜久弘氏
現地受付 宮本さん
予約先 ウッデイパル余呉 城郭係
☎ 0749-86-4145 ★火曜は定休日です。
※お車で参加の人 当日午前10時 駐車料金無料
余呉観光館前/滋賀県長浜市余呉町下余呉1938番地
※電車で参加の人
JR北陸線余呉駅 当日午前10時10分
参加費 2500円
特典 ①送迎バスあり「見学会員用送迎バス」
②弁当付
③資料A4/8ページ
④講師による詳細現地遺構詳細解説
★注意 弁当用意の為に事前予約制です。
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質問者
城郭講演に行くと西浅井町「現長浜市合併」
には全く城郭がないと言われますが下記に
は北近江国人筆頭に熊谷下野守が記されて
います。塩津、今西、南浜、等に居住して
いた北近江国人筆頭の熊谷下野守らの山城
が塩津谷つまり西浅井町に存在するのかを
長谷川先生に質問しましたら10箇所以上の
城址があると言う事で非常に驚きましたよ。
西浅井の西岡城に長谷川先生と見学行った
ら物凄い堅固で立派な城址に驚いています。
私達が歴史講演で学んでいる内容と現実の
実際の山城には開きや、ネジレがあります。
歴史とは文字だけ講演だけが第一の歴史?
なのですかね?私は何を信じたら良いのか
長年悩んでおります。長谷川先生の城郭の
師匠や先生はどなたですかと?質問しても
何時も答えは「私の城の先生は人ではなく
城址そのものから学んでおります」が口癖。
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『天文三年浅井備前守宿所饗応記』
浅井備前守(亮政)
御屋形様(京極高清)
御曹司様(高広)
「一族衆」
京極加賀守政数
加賀五郎(政数甥)
黒田四郎左衛門尉(宗清)
岩山民部少輔
高橋兵部少輔(清世)
碧憪斎
「奉行人」
大津若狭守(清忠)
山田越中守(清氏)
「国人衆」
熊谷下野守直房★
多賀豊後守貞隆
河瀬九郎左衛門尉
河瀬新六
下河原宗兵衛尉
浅井備前守(亮政)
御屋形様(京極高清)
御曹司様(高広)
「一族衆」
京極加賀守政数
加賀五郎(政数甥)
黒田四郎左衛門尉(宗清)
岩山民部少輔
高橋兵部少輔(清世)
碧憪斎
「奉行人」
大津若狭守(清忠)
山田越中守(清氏)
「国人衆」
熊谷下野守直房★
多賀豊後守貞隆
河瀬九郎左衛門尉
河瀬新六
下河原宗兵衛尉
長谷川
さてさて『饗応記』文面だけを読むと
何も解りません。当時の武家社会には
武家社会の有職故実智識や含蓄が必須
です。
熊谷下野守は当時の昇殿席次を鑑みるに
京絵氏に次ぐ席次を誇っている。
しかもも熊谷下野守殿と「殿」の敬称を
用いている浅井備前亮政は、席次も低い
当時の江北のヒエラルキー階級を痛切に
感じる資料と言えます。その熊谷氏達が
割拠した塩津谷に城が無いなどとは良識
ある研究家なら軽々に断言はできません。
日本海から塩の道を押えてた塩津熊谷氏
が山城ひとつも構えられないなどと道理
が、通りません。熊谷氏の城は隠然たる
西岡城として輝いています。また文献的
資料価値の高い『菅浦文書』などでも
「しおつ勢」なる文言で書き記されてる。
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