近江柏原城の鼎談
◆顧問役
◆○○〇
◆長谷川
◆〇〇〇
長谷川先生は近江柏原城
どう考えられています?
僕なんか全く違う考えで
発想しています。長岡の
方も清滝にある地籍だし
この方面に砦が多数出現
した訳ですから!驚き!
◆長谷川
ウイッキペデイアを引用
するなら
は氏信の法号の清瀧寺殿からとられ清瀧寺とされ[2]、
氏信の死後にはその菩提寺とされた[3]。
近江国の当地を交換し、当地に残されていた京極氏信
の菩提寺である当院を再興させて三重塔(滋賀県指定
法名に基づき徳源院と改めた[2]。また、付近に散在し
ていた中世京極氏歴代の18基の宝篋印塔を新しく整備
した京極家墓所(国指定史跡)の上段に集め、下段に
は家を中興した京極高次の石製霊屋を中心に歴代
◆長谷川
常識的に言って弘安9年以前の
柏原城は何処に存在したか全く
解らないのです。清滝キヨダキ
と発音するので神聖視されたる
山岳の意味「ダキ」や「焚き」
の意味も民俗学では含んでる
○○〇の小字滝戸これもタキド
なので清滝の戸「家と言う意」
を含んでおります。
◆顧問役
柏原館を守る為に作らりた砦が
ふるい京極家の柏原要塞群かと
考えています。
◆長谷川
顧問様の発想良いかもしれません
朝倉氏なども間所道を厳重に守備
せよと言っております。中世交通
は峠越や岡越や峯超こそが普通の
道で現代の様な道は存在しない訳
人が歩いて最短距離で行ける間道
こそが防衛すべき重要地点と言え
ます。米原には久礼と言う集落が
地頭山城東麓に存在するのですが
昔は久礼坂と呼ばれる坂道切通
しがあり地頭山城の南出丸の役割
をしておりました米原山東町清滝
へ行く峠にも柏原城の出丸や哨戒
つまり見張り砦が存在したと推理
する事は中世の柏原城の防衛網の
一端発見できる契機になるかと?
◆顧問役
とにかく行って見ましょう小さな
山越えで柏原城を守る砦を一城で
も発見出来たらそれは古京極氏の
柏原城塞群の一端と言う事です!
さつそく堀切らしき所見えて来た
◆長谷川
これは堀切ではなく間道の
切通です。
◆顧問役
残念でしたね!発見ならず!
◆長谷川
右側の人口工事のされた山尾
根を踏査してみましようか?
これやはり古い砦跡ですよね。
黒田京極型近江型の砦の跡だ。
◆長谷川
これ国道21腺方面の急峻地形
の山尾根にある砦によく似て
おります。黒田京極型の砦の
形式と言えると思われます。
◆みんな
長岡柏原何と不思議な地帯?
◆顧問役
そりや数国の守護職を同時
歴任していた初期京極氏の
要塞群や要害の跡が散在を
したと考える方が適切です。