城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

麒麟が来る!明智方阿閉貞征の巨大山本山城見学会!

2019-12-17 08:27:39 | 城址見学会予定 

山本山城 北城 本城見学会
(滋賀県長浜市湖北町山本)
日時 2020/2/1

講師 長谷川博美 歴史城郭研究家
(元滋賀県中世城郭分布調査員)
(元NHK名古屋文化センター『信長公記』解説講師)

主催 NPO法人自然と歴史ロマンの会
事務局受付連絡先
藤田守 090ー1489ー5323

理事長 丸山竜平
(元滋賀県中世城郭分布調査事務局)

参加費 500円(資料付)

参加対象 会員以外参加OK

集合場所 JR北陸線河毛駅『西口』御前10時

弁当 雨具 水筒 各自事前用意の事

保険 会員完備 非会委員保険不適用

年間会員費、1000円、会員勧誘されま
せん。どうぞ御自由に気楽にどなた様
でも御参加下さい事務局受付連絡先は
藤田守 090ー1489ー5323

特徴
『信長公記』に登場する奥琵琶湖東岸
最大の山城その規模南北に累々と土塁や
多数の堀切を備えた全長600mにも及ぶ
近江屈指のなだたる山城で講師の緻密
な城郭遺跡見学通には垂涎の定評ある
鉄板城郭遺跡見学会!途中古保利古墳
南群をねも併せて見学し丸山竜平先生
の解説を受けて自然環境に配慮しながら
奥琵琶湖の大観を眺望できる絶好の機会
是非とも見逃せない福井滋賀岐阜の人は
見逃せない見学会になりそうだ!山本山
城北城を見逃した人もキッチリト見学す
る事が出来るパーフエクト城郭遺跡見学!

ウイッキペデイアの★阿閉貞征を引用すると

阿閉は、阿辻ともする[1]。 代々北近江伊香郡
の国人であったが、浅井氏が京極氏に代わっ
て勢力を拡大するとこれに従うようになった。
貞征は浅井家の重臣として北国街道や琵琶湖の
湖北を見渡せる要害・山本山城を任された。

元亀元年(1570年)姉川の戦いには1000騎を
率いて参陣。磯野員昌、浅井政澄に続く3段目
に布陣した。姉川の戦い後も対織田戦に参陣し
、山本山城が織田信長の攻撃を受けたが、
撃退した。しかし天正元年(1573年)、信長に
内応し山本山に織田軍を引き入れたため、
小谷城は孤立し主家滅亡の遠因をつくる。
8月8日、子・貞大と共に信長に降参し、後すぐ
に朝倉攻めの先手を務めた[2]。このとき磯野員昌
・堀秀村と共に、一時、越前国木ノ芽城の守備に
ついている[3]。

「姉川の戦い」および「小谷城の戦い」も参照
『浅井三代記』ではこれらの功により伊香郡を
与えられたとあるが、北江は羽柴秀吉に一職支配
権が与えられており、貞征は伊香郡内の本領と浅井
郡管浦の地などを安堵されたに過ぎないらしい[2]。
秀吉の与力とされた。

天正3年(1575年)の越前一向一揆にも秀吉と共
に参戦しているが、次第に秀吉の圧迫が募ったよ
うだ。竹生島の寺領の横領で訴えられたが、逆に
竹生島にある扶持の過半を秀吉に取られたのであ
ると、貞大が信長側近の菅屋長頼に弁明している[2]。

天正5年(1577年)より秀吉は中国攻めで播磨国へ
赴くが、阿閉父子は近江に留まり、信長の旗本に組
み入れられたらしい[2]。同6年(1578年)11月より
始まる有岡城攻めには信長に従って参戦。同9年
(1581年)の伊賀攻め、同10年(1582年)1月15日
の左義長の爆竹でも近江衆のなかに名がみえる[2]。
同年3月の甲州征伐にも信長に随従した[2]。

天正10年(1582年)、本能寺の変の後、明智光秀に
加担して、秀吉の居城・長浜城を占領した。山崎の
戦いに参加するが、敗戦。秀吉方に捕縛され一族全
て処刑された。『天正記』『惟任退治記』によれば、
処刑方法は磔刑であった。 なお、藤堂高虎や渡辺了
も一時期、貞征のもとで家臣として仕えていた事がある。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 誰も語らなかった日本城郭研... | トップ | 柴田勝家は野球で言えば秀吉... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

城址見学会予定 」カテゴリの最新記事