所沢 根古屋城の縄張
◆依頼者
城郭ビイスタよりも城郭
の長谷川先生の平面構造
解説つまり従来の縄張論
で所沢の根古屋城を解説
して頂きたいのです。
◆長谷川
図面を見れば即刻誰でも
解ると思いますが、、?
◆依頼者
そこを何とか是非解説を!
◆長谷川
所沢市発行『所沢市史中世史料』
根古屋城跡図をお借り致します。
◆長谷川
①はこの城の主郭本丸に相当
周囲は土塁で囲郭されてます。
あ は横矢掛りです。⑥は虎
口です。⑧はこの城の中心を
なす大矢倉に相当します。⑨
の横堀をクランク状に曲折さ
せ⑧より側面側射可能とする
横矢掛りの縄張をしています。
う は二の郭で土塁で囲まれ
て⑭の土橋は歪土橋の縄張で
す。⑱は二の郭の外郭土塁で
す。お ⑲は張出矢倉台です
⑮⑯⑰と主郭二の郭の外郭で
⑮ く も張出矢倉です。
㉙は横流れの竪堀㉖は主郭の
㉚も矢倉 か は虎口です。
㉗㉘は主郭の外郭土塁です。
㊱は独立した郭でその外郭
はその外郭が㊳でその虎口
は「け」です。㊵は矢倉台
◆意見者
そんな小学生に説明する様な
部屋割りのような縄張解説は
昭和平成の時代で終わってま
すよ。私が長谷川先生ブログ
の開設を御勧めしたのは令和
の新しい城郭定理ビイスタ論
を世に知らしめる為なのです。
そんなくだらない城址解説は
先人の研究様式の踏襲や模倣
に過ぎません!令和には令和
の新城郭学問定理ビイスタ論
長谷川先生は会得しておらる
凡百の解説を喜ぶ人々が果た
して令和の時代にいますか?
城郭とは高度な幾何学です!
◆長谷川
また厳しく注意され怒られて
しまいました。所沢根古屋城
のビイスタを素人アマチュア
の私が解析解説出来ませんよ!
僕は無名の四流無名城郭研究
家で支持者も理解者もゼロ!
しかし人口湖「狭山湖」が
出来る前にはこの「竜谷城」
も遠目に立派景観を呈して
いたと私は考えます。そう
遠隔ビイスタ工法の潜在!
◆長谷川
更に複数の重複ビイスタ工法
を駆使して所沢根小屋城とは
縄張されている。この複数の
高度な重複ビイスタ工法とは
やはり関八州を統治の後北条
の指導改修が入ったと思われ
ます。ABCの放射状測量方法
重複ビイスタの高度さは圧巻
▼重複ビイスタ工法
◆長谷川
さらに緻密な中芯測量起点
中央ビイスタの痕跡もこの
城は備えている優れた城郭
◆意見者
そら見て御覧なさいよ!所沢の
根古屋城ただものが設計縄張し
た。そんじょそこらの城址とは
訳が違うのです。と同時私は城
を見る心、城の講師を冷静選択
する冷静な社会判断力も不可欠
だと常々思っています。
◆ウイッキペデイア引用
歴史・沿革[編集]
(1390年~1428年)に築城された。元々の城名は竜谷城
や勝楽寺城と呼ばれていたが、後に山麓にあった集落名
にちなんで根古屋城と名付けられたという。根古屋とは
寝小屋という意味で、日本の各地に存在する字でもある。
城主やその家臣らが平常時はこの集落や、山口城に居住し、
有事の際にはこの根古屋城に籠るようになっていた。
城の周辺には築城者である高忠から付けられた「小太郎坂」
という地名があったと伝えられているが、現在では不明
である。父である山口高治は祖父・山口高実らとともに
えた高忠によって山口城は室町時代末期に修復されたが、
山口城はもともと館であったため、山口城とは別に根古屋城
を築城し、山口城の城郭として機能させていたようだ。
高忠から5代目の山口高種の時、北条氏康の攻撃により
その後も根古屋城は改修されながらも山口氏の家臣である
伏見小太郎(「新編武蔵風土記稿」による)や、後北条氏
の家臣の山住彦三郎(「武蔵野話」「勝楽寺村地誌」
「江戸名所図会」による)が城主として存続したとされる。
現在の東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷(当時の村山村の一部)の
瀧田谷津・尾引谷一帯に、戦国時代末期、北条氏照に仕えた
という村山党金子氏の一派村山土佐守義光がこの辺り一帯
を治め、居館を構えたという伝承が残っている。 そのため
、殿ケ谷と呼ばれる地名が残っている。
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