城郭 長谷川博美 基本記録

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明智光秀の正体 Ⅱ

2020-03-12 09:26:17 | 日記
明智光秀の正体 Ⅱ
須川山砦 長谷川博美図


先日小説として上記Ⅰを書きました。
読んでない人は是非一読下さいませ。

麒麟の花押を使う室町幕府14代将軍
が足利義輝です。

元の名前が、足利義藤です。
★藤の名前に注目して下さい。

明智光秀の上司だったと言われる
細川★藤孝とは
元のは名前は三淵藤隆です。
また一色藤孝も名乗っています。
彼の腹違いの兄は三淵★藤英です。

前回の小説では明智光秀伝説の残る
滋賀県犬上郡佐目の名産「藤」が
登場しております。この藤蔓は
最高級でありパリ万国博覧会でも
藤製品とし優秀物産品として賞を
獲得したとの。

さて前回の小説で明智光秀の
本性ではないかと思われる
岐阜県の多羅城の武将である。
「進士藤延」を取り上げました。
当時の武士の特徴として主君の
名前の名前を拝領する習慣があり
ます。「進士★藤延」

偏諱
(一般)【へんき】
日本では、上位者が下位者に諱(俗名)
を一字与える事を偏諱(へんき)の下賜
と言い、中世以降、公家、武家社会にお
いて広く行われた。主君から家臣に授与
する例が多いのは当然として、親子にお
いても嫡出子、非嫡出子を問わず、父親
の偏諱(へんき、かたいみなとも読む)
を受け継ぐ例は、非常に多く、同じ文字
を共有する歴代当主が連綿と続く系図を
探すのは容易であり、これが中世に一般化
した風習であった事です。

<初公開の一色藤長・三淵藤英連署書状は、
米田与右衛門家に伝わる医書の料紙の裏に書き
込まれていた14通の同趣旨の文書のうちの1通。
永禄九年(1566)八月に矢島の義昭と信長の
上洛計画が立てられたが、直前に六角氏の裏切り
にあるなどしてそれが頓挫したために、発給され
ずに反故紙になって、そのために現在まで伝わっ
たという、驚くべき文書である。>
(展示図録「信長からの手紙」より)


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